体力回復
身体の感覚が戻ったのは一日後だった。
死の世界をさまよっていた男は、現実世界に戻ってこられたことに安堵する。あのままあの世に旅立っていたら、すべてが終わっていた。
意識を取り戻したばかりの男に、メイドは優しく声をかける。精神的に参っているからか、陽気な声は心に響いた。
「ようやく目を開けましたね」
メイドは満面の笑みを向けてきた。現実世界において来てしまった彼女と明確に異なるものの、ほんのちょっぴり心はときめいていた。苦しみを感じているときに優しくされると、心は動きやすい。
白いタオルをメイドが片手に持っていることに気づいた。目を覚ましていなかったら、頭部に乗せるつもりだったのかな。彼女にとって、クスリは死人同然のように感じていたのかもしれない。
「一日中眠っているなんて、よっぽど疲れていたんですね」
眠っていることには気づいても、プレイヤーが苦しんでいたことには一ミリも察知していない。ウイルスゾーンの病気は、他人に苦しみがわかりにくいようにできているのかな。
「豪華な食事を用意させていただきました。これを食べれば、身体は元気になるでしょう」
クスリは出された食事を見つめる。一般家庭ではまず食べられないクラスの料理が並べられていた。
豪華な食事を食べるよりも、入浴で汗を流してしまいたい。クスリにとって必要なのは、体内を奇麗にできる環境だ。
RPGで川らしきものを見つけたら、身体にかけてみようかな。お風呂ほどの効果はなくとも、体内の汗を軽く洗い流すくらいはできるのではなかろうか。
メイドは食事を羨ましそうに見つめていた。口にはしないものの、食べたい、食べたいと心の中で思っているのがはっきりと伝わってきた。
「豪勢な食事にありつけて、とっても羨ましいです。私は一生間働いても、ごちそうは食べられません」
RPGの世界で提供される食事は、一般庶民がどんなに手を伸ばしても届かないものばかり。クスリもこちらの世界にやってくるまで、このような食事にありつけたことはなかった。
メイドの体型をチラ見すると、餓死しそうなほどに痩せ細っていた。ダイエットに取り組んでいるにしても、さすがに痩せすぎではなかろうか、栄養失調で、明日にもあの世に旅立っても違和感はない。
若い女性が苦しまなければならないのは、神の行いによるもの。ゆがんだ社会に終止符を打つためにも、神をやっつけてしまいたい。
メイドは満足に食事できないにもかかわらず、必死に前を向こうとしているのを感じ取った。
「お水を用意したので、これを飲んでください。身体にとって水分は重要な役割を果たします」
水を口に含んだことで、わずかながらではあるものの、生命力を取り戻した。
豪勢な食事にありつこうかなと思ったものの、現状では食欲はわかなかった。キャビア、フォアグラ、ステーキではなく、雑炊などを食べたい。
メイドに雑炊を作ってほしいと頼もうと思ったものの、声を発することはできなかった。失語症にかかった患者さながらの状態だった。
白いご飯を口に運ぼうとしたものの、胃袋をなかなか通過しない。クスリは痰の水分を使って、雑炊に近い状態に近づける。こうすれば流し込めるかもしれない。
メイドから提供された水を口に含む。水分を体内に取り込んだことで、ご飯を何とか押し込むことができた。
「とっても食べにくそうですね。あっさりとした食事を持ってきます」
雑炊を作ってほしいと伝えたいものの、声を出せる状態にない。メイドが作ったものを食べることになりそうだ。
喉を通したばかりの白米が逆流しそうになった。クスリは防ごうとするものの、勢いに逆らうのは厳しいのを悟った。
地面に吐くわけにはいかないので、コップの中に吐き出す。胃袋は白米から解放されたことで、調子を取り戻したように感じられた。
RPG中は燻製の肉を口にする必要がある。体調が回復しなかった場合、腹を満たすのは非常に困難となる。動けるようになったとしても、まずい肉を食べられるようになるまでは、ここに泊まらなくてはならない。
メイドは十五分ほどで戻ってきた。手元には病人の食べやすいメニューが並べられている。
「塩雑炊、果物を用意させていただきました」
どちらも水分を大量に含んでいるため、喉を通りやすいと思われる。満足な食事を得られることに、心を躍らせていた。
クスリはお礼をいう代わりに、深々と頭を下げる。第三者に対して、ここまでお礼の気持ちを伝えたのは記憶にない。
メイドは吐き出した白米の入っているコップを下げると、新品状態のものと取り換える。嫌な顔一つ見せないところは、好印象を覚えた。
雑炊を口の中へと運ぶと、胃袋はすんなりと受け付ける。塩雑炊に向かって、「おいで、おいで、おいで」と歓迎していた。
塩雑炊を食べたことにより、身体は極限の空腹状態であることを思い出したようだ。クスリは怒涛の勢いで、雑炊を流し込んでいく。メイドはその様子を見て、クスっと笑っていた。
「よっぽどお腹がすいているんですね。もうちょっと持ってきます」
メイドはヒマワリを連想させる笑顔をこちらに向けた。クスリの心を穏やかにする笑みは、RPGで提供されるどんな食事よりも養分を含んでいるような気がした。
メイドが退室した後、現実世界の彼女の笑顔ならどんなに幸せなのかを考えた。好きな女性だと、一〇倍、一〇〇倍にも膨れ上がることになる。
ご飯を食べたあとは、再び脱力状態に戻ることとなる。体内の力は完全に抜けてしまった。