バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

初出勤

 六月一日。ついにこの日がやってきた。
 ファッションロジックは都心のさらにど真ん中にあり、東京のどこからでもアクセス抜群といったところだ。
 けれど、私は前の会社から割と近くに住んでいた(というか会社の場所に合わせて物件を借りた)ため、以前より通勤時間が長くなってしまった。
 「これから、早起きしなきゃなぁ……」
 そう思いながら、ファッションロジックの本部が入っているビルへと足を進めた。
 「ここの二十五階っと……」
 前の会社とは違い過ぎる、大きな建物。
 前の会社は雑居ビルの中にあり、六階だった。それがいきなり二十五階って……。ハイテクが過ぎる(?)。
 当日のスケジュールについて記載されているメールによると、社長室で辞令交付が行われるらしい。これだけハイテクなビルなんだから、社長室もかなりすごそうな予感がする。
 「社長……」
 ファッションロジック社の社長は、浜崎さんだ。つまり浜崎さんから直接辞令を交付されるのか……。先週、最寄り駅での出来事を思い出すと、何とも言い難い、むずがゆい気持ちになる。
 あんな風に、男性に頭を撫でられたのっていつぶりだろう。
 温かくて、大きな手。一度知ってしまったら、そこに甘えたくなってしまうような……。
 ってダメダメ!今日から新しい仕事なんだから、シャキッとしなきゃ!
 そう、こうやっていつも自分を仕事へと奮い立たせてきた。
 恋愛も悪いものじゃないってことは分かる。恋人がそばにいてくれる安心感は特別なものだ。
 でも、私は恋愛を諦めた。だって私は、つまらないから。
 それ以上考えると、またネガティブなループに陥りそうで、慌てて思考を切り替える。
 「まずは社長室の場所を確認しなきゃっ」
 メールを印刷した紙を見て、目的の場所へと向かう。
 そう、私にとって恋愛は二の次、三の次なのだ。ここのところちょっとドキドキするような出来事があったからって、また恋をしようとは思えなかった。
 「社長、おはようございます。本日からお世話になる神崎です」
 「神崎、おはよう」
 迷子になりかけながらも、何とか社長室に辿り着いた。
 ドアを開けると、いかにも高そうな大理石の床が広がる。その奥で、浜崎は早くも仕事を始めているようだった。
 「あの、こちらで辞令を交付されると伺ったのですが……」
 「そうだったな。神崎、今日からお前は、俺の秘書になってもらう」
 「えっと……辞令は?」
 「これが辞令だ。さっそく頼みたい仕事がある。俺の隣にあるデスクがお前の座席だ。パソコンは一通りセットアップが完了しているから、さっそく業務の説明に入るぞ」
 「あ、は、はい……!」
 秘書ってどういうこと!?
 そんな疑問を抱えつつも、仕事と言われたらやるしかない。悲しい社会人の性である。
 とはいえ、私に秘書がつとまるのか、どうして私が秘書なのか、聞きたいことは色々あった。
 だがしかし、そんな私の思いなどつゆも知らないであろう浜崎さんは、サクサク仕事を進め始める。
 初日の午前中は、浜崎さんのペースについていくことだけで必死だった。
 「午前の説明は以上だ。ここまで不明点はあるか?」
 「えっと、今のところは問題ありません。また色々まとめて分からない点があれば質問させてください」
 「わかった」

 やっとお昼だ……。
 午前中から社長室で浜崎さんの難しい話を聞く時間がようやく終わった。社長直々の説明を受けて、ファッションロジック社がどんな歴史を歩んできたのか、   これから社長が会社をどうしていきたいのか、そして自分には何が求められているのかを詳細に理解することができた。
 社長秘書なんて初めてだし、自分につとまるかどうか不安はあるけど、きっとこの仕事でもっともっと成長できるはず!
 「神崎、何が食べたい?」
 やるぞ!と息巻いているところで社長に声をかけられる。
 「え?今日はコンビニでおにぎりとか買おうと思ってましたけど……」
 「そうか。それなら俺と食べるぞ。いいな」
 「えっ? あ、いやいや、そんな滅相もありませ……「俺との飯は食えないとは言わせないが」」
 社長とランチなんて初日から刺激が強すぎる!
 そんな私の気持ちなんて知る由もなく、勝手に話を進められる。午前中の真剣な話しぶりとは打って変わって、まるで前の会社で会っていた時のような強引さだ。
 「それじゃ……お願いします……」
 浜崎さんとのランチ、芝さんならきっと喜んでOKしていただろう。でも、私だよ?神崎だよ?そして、こんな圧々(圧がめっちゃ強いこと?)な雰囲気で来られたら断れないよ?
 「今日は特別に、俺が気に入ってる店を教えてやる」
 「は、はぁ……」
 そういうと、何やらパソコンを操作し始める。どうやらネットで注文しているらしい。
 「えっと、お店に行くんですか?」
 「いや、ここで食べる。すぐ届くから待ってろ」
 そして15分ほど過ぎたころ、社長が注文した料理が届いた。
 「うわ、高そう……」
 「遠慮するな。今日は歓迎ランチだ」
 「あ、ありがとうございます……」
 いかにも高級そうな焼肉弁当が手渡される。い、いくらなんだろう。
 浜崎さんに「遠慮するな」と言われたものの、「社長と二人きりでランチ」「高級料理」のダブルパンチで、思った以上に喉を通らなかった。それでもお肉の柔らかさや「人様にご馳走してもらったんだし、食べきらねば!」となんとか完食した。よく頑張った、私の胃袋。夜は身体に優しいスープでも作ろうか。
 緊張しすぎて時間が長く感じた昼休みも終わり、午後の業務に取り掛かる。午後からは実際に電話応対やファイル整理など少しずつ実務に入った。これから来客対応もバンバン入ってくるらしい。緊張するけど、頑張ろう!

しおり