カウントダウンまでの日々
会社が譲渡されると発表されてから、あっという間に二週間が経ってしまった。会社が譲渡される。事柄で言えばたった一言だが、そこに至るまでにこれまでの取引先に挨拶周りをしたり、業務の整理をしたりとやることはたくさんあった。
私も、積み重なったあらゆる手続きや事務関係の処理を裁くのに必死で、ものすごいスピードで日々が進んでいく。それは、自宅の寝室に置いている日めくりカレンダーをめくるのも忘れるほどだった。
けれども、その間にも会社譲渡までの日々は着々と近づいている。中には、早々と転職先を決めて退職する人も出てきた。月末には、退職者の送別会を開くことも決まっている。
私は、というと特段転職は考えていない。残りの期間で転職活動を行う時間が捻出できないのがもっともな理由だが、社長が会社を畳もうとしていたところを運よく拾ってもらったおかげで、来月以降の雇用が保証された。
私は、神崎りおなは、ファッションロジック社に、浜崎 俊に助けられたのだ。そして、今とほぼ変わらないメンバーでまた仕事ができる。もちろん部署は離れてしまうかもしれないが、会社がなくなってもそこにいた人たちがほとんど変わらないことは不幸中の幸いだった。
さらにそれから一週間があっという間に過ぎて、送別会の日がやってきた。小さな会社とはいえ、ほぼ全社員が参加するちょっとした規模の会になったため、会社近くのレストランを貸し切って行うことになった。
「それにしても、あっという間の一カ月だったねぇ」
吉波さんがビールのジョッキを持ちながらそう言った。
私たちのテーブルはいつものメンバー、私の右隣に吉波さん、向かい側に服部くん、服部くんの隣に芝さんが座っている。
「本当!忙しすぎてあっという間でしたよ。入社したばかりなのに、もう会社がなくなるなんて思ってもみなかったですし」
「そればっかりは本当に残念よねぇ」
芝さんがふぅとため息をつく。私はこの会社に入って3年経つが、芝さんはまだほんの1ヶ月半くらいだ。それなのにいきなり会社譲渡なんて聞いても、急すぎて戸惑ってしまうだろう。それでも、芝さんは案外現実をさらりと受け入れているような印象があった。
「まぁ、会社がなくなるのは寂しいですけど、次の仕事先は決まってるし、社長はイケメンの浜崎さんだし……それは良かったな~って思います」
「あらあら、芝ちゃんたら。でも仕事が決まっているのはありがたいわよねぇ。浜崎さんもうちの会社を拾ってくれたわけだし」
「本当、浜崎さん様様ですよぉ!イケメンだし性格もめっちゃいいですよねぇ。ますます惚れちゃいました!」
「あはは。来月からの仕事が楽しみだねぇ」
「正直、ちょっとだけワクワクもしてますね」
「あら~若い証拠だわ。もうこの年になると、環境が変わるのがしんどいのよねぇ。ワクワクなんてうらやましいわぁ」
「やだもう吉波さんたら!ほら、神崎さんと服部さんも飲みましょうよぉ」
二人の会話をぼんやりと聞いていたら、ビール瓶を持った芝さんが注いでくれようとしていた。
「あ、ありがとう」
気付けば空になりかけていたグラスに、芝さんがビールを注ぎ込む。しまった、今日はあんまり飲む気分じゃなかったのに。ぼんやりと会話を聞きながら、いつの間にか飲んでいたらしい。
「いえいえ~。服部さんもどうしたんですか?二人とも元気ないですよぉ」
「うーん、やっぱりこう……なんというか、しんみりしちゃって」
「寂しさはありますよねぇ。服部さんもそういう感じですか?」
「そうっすねぇ……。あ、ありがとう」
芝さんが服部くんのグラスにもビールを注ぐ。会社譲渡でセンチメンタルになっているのは、私だけじゃないようだ。
「私、正直服部くんは転職するのかもって思ってたんだよねぇ。向上心あるしさ、他の会社でまた一から頑張る服部くんが、なんだかイメージできて」
吉波さんがそう言う。確かに服部くんは我が社のエース的存在だが、だからこそ会社譲渡を快く思わず、さらにステップアップを目指しそうな気持ちは私もよく分かる。
「うーん……、初めて譲渡の話を聞いたときは転職っていうのも一瞬考えたんですけど、もう少し今の場所で頑張りたいっていうのと、あとは会社の人が好きなんで。今のメンバーのまま働けるなら……って思ったら、転職って気にはならなかったっす」
「愛社精神だねぇ、素晴らしい社員だよ服部くんは!」
吉波さんが「偉いっ!」と言いながら、ぐびぐびとビールを流し込む。どうやら服部くんの発言が酒のつまみになったらしい。
愛社精神、かぁ。確かにそれはあるかも。
「……それに、この会社でやり残したこともありますし」
「やり残したことって?」
どこか言い含めるようなニュアンスに、違和感を覚える。
「それは秘密っす!」
「え~、気になるじゃないの!」
「そうですよ~、教えてくださいよ服部先輩!」
吉波さんも芝さんも、服部くんの言い方が気になったようで、続きをせがむ。服部くんがあんな言い方するの、珍しいな。いつもハッキリ自分の意見を言う人だから、何か深刻なことなんだろうか。
「ちょっと飼い主……いや、神崎ちゃんからも言ってやってよ!」
「飼い主って!神崎先輩で俺を釣るのやめてくださいよ~」
「だって二人はねぇ!」
「そうですよ~、服部先輩は神崎先輩に弱いんですから。使えるものは使わないと!」
「使えるものって!神崎先輩はモノじゃないんすから」
「すみませ~ん!お二人とも失礼しました~」
「ははは、芝ちゃんは面白いねぇ。で、やり残したことってなんだい?」
「いや、だからそれは秘密ですってば……。もしそれが叶ったら、またそのときに報告するっす」
「えー何それ!めっちゃ気になります!」
「叶ったらってことは、今は難しいことなのかい?」
「あ、いや、そうっすねぇ……」
そう言って、服部くんが目を合わせてきた。
え、私?
「あれ、私何か聞いたことあるっけ?」
「いや、そういうわけじゃないんすけど……」
「ちょっと芝ちゃん。これは急展開だねぇ」
「そうですね。私たち邪魔者になってますね。ちょっと退散しましょうか」
「え、あ、ちょっと……!」
吉波さんと芝さんが同時に席を立ち、2人仲良くお手洗いの方に向かっていく。
息ぴったりの2人だ……じゃなくて!
「えっと……。服部くんのやり残したことって、何?」
おそらく教えてはくれないと思うが、私も少し気になってしまった。
おそるおそる服部くんに質問してみる。
突然の質問を受けた服部くんは、うーんと唸るように腕を組んで何やら考え始めた。
「俺、ちゃんと神崎先輩に伝えてないんすよ」
「えっ、何を?」
仕事上の話だろうか、いや、それにしては思い当たる節がない。
何のことだろうかと全速力で頭を働かせるが、どうにもまったく予想がつかない。
「……こういう場で言うつもりはないっす」
「何で?」
思わず反射的に聞いてしまった。だって今、絶対に言うつもりだったでしょ。
「先輩、本当鈍感っすね……」
「だから、何が……?」
「もういいっす。今日のところはこれで勘弁してあげます」
「ど、どういうことなの……」
「はぁ~、もう少し一歩踏み込んだ方がいいっすかねぇ」
「どうしたの?」
「いや、こっちの話っす」
「?」
ますます謎が深まるばかりだ。
そして、そうこうしているうちにニヤニヤと楽しそうな吉波さん・芝さんペアが席に戻ってきた。
その後の私たちの様子をやたら気にしていたようだが、本当にみんな、どうしたんだろうか。
そんなこんなで、あっという間に楽しい時間は終わってしまった。
私は一人、最寄り駅から自宅までの道を歩く。自宅までは徒歩で十分ほど。人通りのほとんどない夜の街。タクシーを呼ぼうとも思ったが、今日は何だか歩きたい気分だった。
「もうすぐ、お別れ、か……」
本当に、その時が来てしまう。
きっとこれは前向きな変化で、私にとって新たな転機だ。そうポジティブに捉えることもできる。けれど。
今の私の仕事は、今の会社でしかできない。もう二度と今の会社で、今の仕事をすることはない。
どうしようもない焦燥感に駆られながら、一人夜道を歩く。
今日はいつもより、人が多く歩いている気がする。そうか、もうゴールデンウイークなのか。
手を繋いで歩く幸せそうなカップルや夫婦たちと、さっきからたびたびすれ違っていた。
みんな、休みでウキウキしているのかな。楽しそうだな。
私は、どう過ごそうかな。実家に帰るのも一つの手段だけど、今のこんな状態で帰っても、親に心配をかけるだけだろう。なるべく家族と会う時は、元気な自分を見てもらいたい。
友達と遊ぶ、とか?それもありかもしれないけれど、どうにも気分が晴れそうになかった。こんな時、恋人がいれば少しは気持ちが楽になるのだろうか。
「こいびと……」
あの日からずっと。そう、ずっと仕事一筋で生きてきたから、そんな存在は忘れた気でいた。でも今は、一人で仕事のことを考えているのが苦しい。
そんな時、突然後方から車のライトに照らされる。早く走り去ってくれればいいのに、徐行運転をしているかのように、じわじわと距離を詰めてくる車。なぜだろうと思って後ろを振り向いて、運転席を確認する。
「……うそ、」
車を運転していたのは、浜崎さんだった。
ようやく気付いたのか、と言わんばかりに背中を照らしていたライトが消えた。路肩に車を停め、ドアを開けて端正な顔がこちらに近づいてくる。
「どうして、こんなところに」
「たまたま通りかかった」
おそらく、それは嘘なのではないだろうか。このごく普通の住宅街で、浜崎さんが乗っているような高級車なんて見たことがなかった。それに、大きなショッピングセンターもない、若い人が喜んで遊びに来るような場所もない、食事だってチェーン店の多いこの街に、浜崎さんが何の用だと言うんだろう。
ただでさえ、この前のこともあるから気恥ずかしい。
「落ち込んでいるのか」
「……」
心の準備など何もできていないのに、いきなり核心を突かれて何も言えなくなる。
「図星か」
図星だ。この人には、どうして全部分かってしまうんだろう。私は何も言っていないのに、なぜ、どうして気持ちを見透かしているかのようにそこに現れるんだろう。
「……別に、浜崎さんには関係ないじゃないですか」
こんなことを言ったところで、浜崎さんには全く通用しないだろう。けれども、一人の大人として、これ以上浜崎さんの前で弱い姿を見せるわけにはいかない。
それはものすごくちっぽけなプライドかもしれない。けれども、もうこれ以上、浜崎さんに弱っている姿を見せたくはないのだ。
……どうしてなのか、今はまだその理由を上手く言えないのだけれど。
「どうでもよくなんか、ない」
「えっ……?」
「大切な人が悲しむ姿を、俺は見たくない」
「……っ」
大切な、人。って、私のこと……?
「ここまで言っても、まだわからないのか?」
「……えと、意味は、分かります……。でも……」
私と浜崎さんは、取引先の社員と社長という間柄だ。それ以上でも、それ以下でも、ないのだ。
「譲渡というのは、強引な手段を使ったと思っている。そのせいで困惑させてしまったことは、本当にすまない。だが、ああしなければあの会社は……」
「それは、分かっています。大丈夫です。でも、大切な人って……。浜崎さんと私って、別に付き合ってないですよね……?」
どうして、声が震えるんだろう。どうして、こんなに切実な声になってしまうんだろう。
「今はまだ……な」
それだけ言うと、浜崎さんは私の頭をポンポンと撫でた。
「……っ、」
やめて。また泣きそうになっちゃうから。どうして、私は。いつから私はこんなに弱くなったんだろう?泣くのを我慢している顔を見られたくなくて、ただ俯いたままで頭を撫でられることしかできなかった。
「来週から、さっそくうちのオフィスで初出社だ。遅刻するなよ?」
「……わ、分かってます!遅刻しませんっ!」
「それならいい。……家まで送っていく。道を教えろ」
「えっ、いいですよ。もうこの近くなので」
「何がいいんだ。もう夜遅い。たとえ近所であっても、夜道を一人で歩くのは危険だ」
「は、はい……」
そう言って、自宅まで送ってもらった。
車内では特にこれと言った会話はなく、美しいクラシック音楽が流れるだけだった。
(また、“貸し”作っちゃったな。この借りは、仕事できっちり返さなくっちゃ!)
浜崎さんに自宅まで送ってもらった夜、気付いたときには落ち込んだ気持ちがスッキリとなくなっていた。