第九十八話
「……俺もすっかり甘くなったものだ」
俺は車で自宅のマンションに向かっていた。
以前のような高級マンションではなく普通の、それなりに綺麗なマンションだ。
信号待ちをしている時、ふと窓の外を流し見た。
その瞬間、世界中の音という音が消え、自分の心音だけが五月蠅くこだまし始めた。
体中の血が高速で巡り、腕が震えだす。
——何故……どうして突然!
青信号になっているにもかかわらず、道端へ乱暴に車を停車させると、車のキーもそのままに、俺は駆け出した。
もうとっくに終わったものと思っていた記憶が疼き、痛みが甦る。
(間違いない! 間違えるはずもない!)
歩道の手摺を飛び越え、後ろ姿を追いかける。
風で前髪が顔面に張り付いてしまうが、身なりなどどうだっていい。
「和歌!」
年甲斐もなく走り続け、遂に後ろ手を掴んだ。
彼女がこちらを振り向く。
切り揃えられた艶やかな黒髪は一本も絡まることなく、動作に合わせて綺麗に半円を描いた。
——あぁ……あの時のままだ。
透き通るような双眸が俺の姿を映し出す。