フランスの原風景
村はパリとは全然違った。農村であり、高い建物はない。建物の建材も、レンガのようだった。
白を基調としていて、そこはサクレクール寺院と同じだけど、様式は全然違った。昔ながらの風景という感じで、ゲームや古い映画に出てきそうなのどかな村だった。
これはこれで良い。私たちはそう思った。
空港での新たな便の手配や保険会社への連絡などで思った以上に時間が取られていて、ホテルに荷物を置いた頃には、いつの間にか夕方になってしまっていた。
せっかく一日伸びたのだから、寝込んだのを取り戻すためにも観光をしたいところだったが、それは明日になりそうだ。
しかし、そんなことよりも重大な問題が生じた。
この旅最大のピンチだった。
何の手違いか、部屋は一つしか予約されていなかった。
受付に聞いても、今日は満室だという。私たちのように飛行機を乗り逃した客が多いようだった。
他の客が後ろに列を成してしまい、受付のおじさんは真顔で鍵をテーブルの上に置いた。私たちは仕方なく、部屋に移動した。
「ま、まぁ、看病してもらってた時、一緒の部屋に寝てたもんねっ」
私は殊更明るく言った。
しかし、ダブルベッドだった。
部屋に入ると、でかでかとダブルベッドが置かれ、余分なスペースはわずかにしかなかった。椅子すらなかった。あとは洗面所やシャワールームがあるだけだった。
「せめて、ツインなら良かったのにね」
カズナリ君が慰めるように言った。
「そうね」
私たちは荷物を隅っこに置くと、ベッドの端っこに座った。なんとなく距離を開けてしまう。
「まー、一日くらいなら、さっきの待合室みたいなところにいてもいいし・・・」
受付の前のところは結構広々としていて、ソファが置かれていた。そこで一晩くらいなら、カズナリ君は過ごしてもいいというのだった。
「ダメ!」
けど、私は反射的に言っていた。
「一緒に寝よう!」
言ってから、カズナリ君の驚いた顔に、私は赤面した。
「そういう意味じゃなくて、だって、あんまりベッドとかで寝てないでしょ?健康に悪いよ」
カズナリ君は私の看病でソファで寝ていたし、この上このホテルでもソファで寝させるのは悪すぎる。
「それに、ホテル側がソファで寝るなんて、許可するかもわからないし・・・」
私は口が渇いてくるのを感じる。何の言い訳をしているのかわからなくなってくる。言い訳が募れば募るほど、ただ一緒に寝たい人だ。
カズナリ君はそんな私を見て、微笑んだ。意地悪く。
「はい、一緒に寝ましょう」
ダブルベッドが占領したような部屋の空間に、その声は木霊した。
一緒に寝ると言っても、まだ夕方だ。
「そ、外、散歩してこよーかな」
立ち上がろうとした私の腕を、カズナリ君がつかんだ。その場に釘付けになる。
「な、なに?」
かろうじて声を出す。
「一緒に行こうよ」
カズナリ君は微笑んで立ち上がった。
「はいはい」
私は恥ずかしいのと相まって、カズナリ君の手を振り払った。まったく、絶対遊んでると思う。
「待ってよ、サエさん」
夕暮れ時の農村は、絵になった。街灯も少なくて、ほんの少し離れただけで人の顔がぼやけてしまう。黄昏時という奴を、久しぶりに体感した。
「家が中世っぽいから、不思議な世界に入り込んだみたいだね」
顔のぼやけたカズナリ君が言う。
「うん」
前から歩いてくる母親と娘らしき人に話しかけた。近くに商店があれば、水などを購入したいと思った。彼女たちは親切に身振り手振りを交えて教えてくれた。
教えられた商店は、パリにあった個人商店よりなお小振りだった。けれど、カード払いは当然のように出来て、水やお菓子を購入した。
「アメちゃんいる?」
「ありがと」
カズナリ君の大きな手に小さなアメが吸い込まれていく。アメはミント味だった。
「カズナリ君は、これで何カ国目?」
そういった基本的なことを聞いていなかったことに気づく。
「う~ん、言っても、まだそんなかな。えーと、台湾、イタリア、アメリカ、シンガポール、クロアチア、チェコ、サイパンはアメリカか」
「六カ国か。台湾は私も行ったことある」
「料理が美味しいよね。魯肉飯とか」
「ね。小籠包には必ず生姜がついてくるのには感動したな」
「美味しいよね。サエさんは、他には行きたい国ないの?」
「ん~、いっぱいあるよ。オーストラリアでコアラとかウォンバット抱きたいし、北欧にも行ってみたいな」
「ウォンバットは良いな」
「ね、抱けるかは知らないんだけどね。おすすめの国はある?」
「ん~、チェコは良かったかな。料理も美味しいし。シチューみたいなのとかね。ちょっと味濃いけど」
「あはは、なんかウチら食べ物の話多いね」
「観光地とか、お互いあんまり興味ないもんね」
「たしかに。そこは通じあえた気がするね」
車が後ろから急に来た。歩道もないような道を歩いていたから、カズナリ君が私の肩を抱き寄せた。
そんなにスピードも出てなかったし、そこまで狭い道ではなかったけれど、カズナリ君はそうしたし、私もそれを自然と受け入れていた。
『あっ、私、もう好きなんだな』
急に、気づいた。
お互いにぼやけた顔を探るように、手を伸ばした。カズナリ君の大きな手が、私の顔を包む。温かい。
カズナリ君の頬には、わずかにヒゲが伸び始めていて、男なんだなって当たり前のことを思う。
そして私は女だ。
なんて当たり前のことを頭が過るんだろう。
初めてのキスは、ミントの味がした。
カズナリ君のやさしげな微笑みが間近に見える。けれどやっぱりどこか、意地悪そうな微笑みにも見えた。
「いで」
だから、ほっぺたを引っ張ってやった。
「なにしゅるの?」
「なんかムカついたから」
カズナリ君は可笑しそうに吹き出した。
「サエさんって案外凶暴と言うか、好戦的だよね」
そう言って、頭を撫でてきた。
「うがー」
「うわっ、悪ベアだ」
カズナリ君は捕獲するように、私を抱きすくめた。
温かい鼓動が胸から伝わってくる。すべてがぼやけて不明確になる世界で、何よりも刺激的で、安心する温かい音だった。
私はあっさりと捕獲されてしまった。いや、最初から捕獲されていたのかも知れない。甘い糸が絡まって、もう逃げられなかった。
逃げる気もなかった。