クレームブリュレ!
「ふー、ここまでくれば大丈夫だろ」
カズナリ君が一息ついた。
一気に駆け下りて、私達は小さなメリーゴーランドがある広場に来ていた。
「お、降ろして・・・」
立ち止まったのに、私を抱えていたままだったカズナリ君に、かろうじて声をかけた。自分でも驚くほどか細い声だった。
「あ、うん」
罪のない笑顔でカズナリ君は返事をすると、丁寧に私を降ろした。しゃがんで、私の両足を壊れ物のように地面に接地させる。
ペッタン靴なのに、ピンヒールでも履いているかのような気分にさせる。
そして、肩を貸したまま、私が立つ補助をして、ゆっくりと手を離していく。
どうしたって、ドキドキしてしまう。
心臓が痛いし、のどが渇く。
顔は絶対赤いし、見られたくない。
けれど、カズナリ君の顔をチラリと盗み見るように、目が勝手に追ってしまう。
私は目眩がして、よろけた。
即座にカズナリ君は、伸ばしたままだった腕で支えてくれた。
「だいじょうぶ?」
泣きそうになる。
なんでかは、わからないけど。
「だ、だいじょうぶ・・・」
むりやり目を切るようにして、カズナリ君から視線を外すと、周りの観光客と目があった。多分、日本人観光客で、三人組の女の子だった。私達を見て、ニヤニヤしていた。
そこで公衆の面前だったことに、ようやく思い至った。
恥ずかしくなり、途端に別の意味で顔が赤くなるのを感じた。
「い、行こ!」
私は、カズナリ君の手を取って、速歩きでその場を離れた。
「はいはい」
カズナリ君は可笑しそうに追いすがると、「ここでは何も隠す必要はないのに」とからかうように言った。その顔には、時折見せる、意地悪そうな笑顔が浮かんでいた。
私はその表情に甘い針のような刺激を受けながらも「いーの!」と子どものような返事をしていた。
カズナリ君はまた可笑しそうに微笑んだ。
私は内心『ズルい!』と思った。なにがズルいのかは、よくわからないけれど。
カズナリ君を引っ張って通りに出ると、「そろそろ何か食べない?」とカズナリ君が言って、目の前にあった赤い色調が特徴的なカフェを指差した。
「・・・うん」
カズナリ君は無邪気に微笑んでいる。本当にお腹が空いているだけの少年のように。私は自分でもよくわからない腹立ち紛れの感情を、腹減りだと思いこんで同意した。
私達はカプチーノとクロワッサン、デザートにクレームブリュレを食べた。注文は私がしたので、ようやく役立てた気がして、気分が良かった。カズナリ君も褒めてくれた。
カプチーノは泡立てたミルクが柔らかでおいしい。クロワッサンもバターの香りが良かった。
「おいしいね」と私が言うと、「ね」と満足げにカズナリ君は微笑む。
かわいい。
不用意にもそう思ってしまう。なんだか、カズナリ君は食べ物を上げたくなるのだ。これに慣れると危ない気もする。
「クレームブリュレって、『アメリ』に出てきたやつ?」
カズナリ君が、表面のカラメルをスプーンでパリパリ割りながら言う。『アメリ』とは、昔流行ったフランス映画だ。
「うん。見たことあるんだ?」
「あるよー。たしか、ここが舞台じゃなかったっけ?」
「うん、そう。モンマルトルだよ」
「だよねー。『アメリ』って、結構エロいよね」
「ふっ、確かに。びっくりした思い出がある」
若くて可愛らしい女性の空想が入り混じった映画なのだが、今この瞬間何人の人がオーガズムに達しいているのだろうか?という問いには、視聴当時高校生だった私は度肝を抜かれた。
カズナリ君はクレームブリュレを一匙すくいながら言った。
「ねー、お洒落映画かと思ったら、びっくり」
見晴らしのいいカフェだから、外の空を見上げれば、さっきまでいたサクレクール寺院が青空に白く浮かび上がっているのが見える。やっぱり離れて見ても壮大で、絵になる。
パリにいるんだなぁ、という何度目かわからない感慨が湧き上がる。
私は言った。
「でも、あれはあれでお洒落ってことなんじゃない?」
当時の私にはわからなかったけれど、今の私には、愛と美は合一しているものなのだというフランスらしい肯定的な考えがすんなり諒解できた気がした。
イメージにしか過ぎないにもかかわらず。
カズナリ君は、また意地の悪い笑みを浮かべた。その瞬間、私の心臓は跳ね上がった。
「へぇ、それって、セックスのこと?」
カズナリ君の口に、クレームブリュレが運ばれる。品のいい口の形の奥に、一瞬赤い口内が見えた。
「えっ、と、わかんないけど・・・」
私は顔から火が出るくらい恥ずかしかった。
「ふ~ん」
カズナリ君は、私の目を逸らさずに見ているのがわかる。視線が熱い。唇にスプーンを当てて、プラプラと遊ばせていた。口元の笑みが気になる。
のどが渇く。私はカプチーノを飲んだ。震えそうな手で、カップを落としてしまわないように、両手で覗き込むように飲んだ。
チラリと目だけ上げれば、肩肘ついて、カズナリ君は意地の悪い笑みを浮かべ続けていた。
「セ、セクハラ、ですっ」
私がかろうじて言うと、カズナリ君は吹き出した。
「ごめんごめん、訴えないでね」
「どうだか」
「え~、許してよ。これ上げるから」
そう言って、カズナリ君は自分のクレームブリュレをスプーンですくって、差し出して来た。
「はい、ア~ン」
私の分も別にあるのだけれど、私はなぜかそれを受け入れた。口にカラメルの苦味とプリンの甘みが口の中で溶け合った。
「おいしい?」
カズナリ君に微笑まれる。
「・・・うん」
これでは完全にバカップルだが、私は素直にうなずいていた。
なんだかやられっぱなしなのも気に食わない。私はやりかえすことにした。
「はい、あ、あ~ん」
カズナリ君は一瞬驚いた顔をしたけれど、また意地悪く微笑むと、私の目から視線を離さないまま、スプーンをくわえた。
「うん、おいしい」
そして、聞かれてもいないのに、満足げに感想を言った。
なぜかやったこちらのほうが恥ずかしくなった。納得が行かなかった。
「くそぅ、こんなはずでは・・・」
私は思わずうなだれた。
「はっはっは」カズナリ君は愉快そうに笑った。「こういうのは、照れた方が負けなのさ」
「なるほど、それでは敵いそうもない」
「ふふん」
カズナリ君はなぜか鼻高々という感じだ。
「まったく、何人の女の子を泣かせてきたのだか・・・」
「泣かされてばかりですよー」
ふーん、やっぱり女慣れはしてるんだなぁ。
「ね、さっきはありがとね」
「えっ?」
カズナリ君がキョトンとする。
「さっき、その、運んでくれて。まだお礼言ってなかったから」
あのままではミサンガを高額で売りつけられていただろう。
「ああ、いつでも言ってくれれば、運びますよー」
私はつい吹き出した。
「なにそれ」
「いや、ホントですって」
そうだね。ホントだね。
だって、こんなところにまで運んで来てくれたもの。
「信じるよ」
私が言うと、カズナリ君は満足したように笑って「はい」とだけ言った。