三章の二 研修先は、一華。
入社してから、もうすぐ三ヶ月が経過する。その間に文花は、会社内で順調な人間関係を構築していた。思惑通り、谷脇一華という盾が機能したからだ。
変な視線を向けてくる男どもには、睨みを利かせてくれた。他の同僚の橋渡しもしてくれたし、なによりも「一華組」のブランドは、社内での信用度を高めてくれた。
どこに行っても、一華の名が出た。研修で製造部内を回ると、よく分かる。
「一華ちゃんと仲いいんだって?」「一華ちゃんは、なんて言ってたんだ」「一華ちゃんは、本当に凄いんだ」
とまあ、老若男女問わず、話題が一華になれば、とりあえず困らなかった。
文花による一華の印象は、ある意味、一匹狼なのに、後ろにちょろちょろと
そんな一華の下で、今日は一日、仕事をする。
文花の製造部内の研修は、一華の主な持ち場以外は、ひととおり終了していた。つまりは、佳境に差しかかっていた。
文花の上司、技能部転写デザイン課の課長、阪口慶二からも「一華ちゃんに教えてもらえば、問題ない」と全幅の信頼が聞けた。
ここまで一華の評判が重なり、なおかつ最終の場が一華となれば、一華に認められなければ、研修が終わらないのでは? と変な不安が襲う。
今日の研修は、絵や模様が印刷されている転写紙を、皿に貼り付ける作業である。入社したての工場見学の際にも案内され、案内人の阪口が食い入るように見ていた。
「そんなに小難しい作業でもないからさ」
一華が、言ってる最中から、すでに一つ、転写紙を皿に貼り付けていた。文花は「今、どうやったの?」と身を乗り出す。
「はい、じゃあ、やってみて」
一華の左隣に配置された文花は、恐る恐る左手に皿を持ち、右手で転写紙を
「そう、そこから、こうやって、右手の転写紙を、左手の皿に合わせるようにしてから、一気に回すように貼り付けるって感じかな」
一華はまた、言ってる最中から、転写紙を皿に貼り付けた。
「最初は、ゆっくりでいいから、丁寧に合わせるだけに集中して」
と言ってる最中に、また一華は、一枚の転写紙を貼り付ける。
文花は、一華の言われるとおりに、まず、ゆっくりと丁寧に、転写紙を貼り付けた。
「まあ、ぎりぎり転写紙は張り付いているから、それでいいよ。その調子」
一華は、教え口調と手の動きが、まるっきり合っていない。さらに二枚、貼り付けていて、文花のほうにも、しっかりと目を向けている。
文花は、最初に言われたとおりに、ゆっくりと丁寧に転写紙を貼り続けた。徐々に、ではあるが、精度と速さに成長がある。
「そうそう、うまいよ。その調子、その調子」
一華の教え方は申し分ない。ただ、隣で十倍の速さの仕事を
「まあ、最初からできるんだったら、私らなんか必要ないからね」
文花は、始める前までは自信があった。手先は器用なほうだと自負していたし、何度か留学先で経験をしていた。
だから「最初からはできない」とか「最初にしては
「まあ、やりながら聞いてよ」
一華は、文花の渋りを見抜いたのか、一呼吸を置く。
「こんなん、長くやってりゃあ、できるようになるし、できるようになったって、どっかで役に立つもんでもないからさ。下っ端の者が、やってりゃあいい仕事なんだからさ」
一華は、気休めの駄目を押してくる。それでも文花は、仕事に甘えは必要ないと、頭の固い想いがよぎった。
「だからさ。喋りながら、気楽にやろうよ」
いつもの一華と雰囲気が違う。一華の雰囲気に引っ張られ、文花は渋々従った。
「文花は、食べ歩き以外に、趣味はないの?」
見合いみたいな定番の質問をされた。
「趣味、かあ。どうだろう……」
気楽に、といっても、作業しながら会話をするほうが、よっぽど難しい。しかし、弱音など吐いていられなかった。隣で一華が、既に五枚は貼り付けていた。
「文花は、ハローキティ、好きでしょう?」
脈絡のない固有名詞が飛び出した。文花は見透かされた質問をされて驚く。
「なんで?」
「なんとなく、だよ」
文花が四枚目を手にしたとき、一華の右脇にある、貼り付け済みの皿を収納する箱が、いっぱいになった。一華は、いっぱいになった箱の上に空箱を置く。
「ハローキティのご当地グッズ。集めているでしょう?」
転写紙の張り付けを再開した一華は、再度、見透かした質問をしてくる。
確かに文花は、ハローキティご当地グッズを集めていた。ただ、高校卒業前には、外でグッズを身に着けたりする行為をやめた。誰からか、は忘れたが、子供っぽいと指摘されて、恥ずかしい想いをしたからだった。
「家には、あるけど、どうして?」
警戒感を持って聞く。ある時期から、収集も隠していた。
「だから、なんとなく、だよ」
一華は、何かを掴んでいそうな笑いをする。
「昔っから、伯父さんがサンリオの株を持っていて、株主優待のグッズをくれたんだよね。きっかけは、そこからなんだけど……」
文花は、話さなくていい余計な話をした。一華は、ふむふむと聞きながらも、手の動きはいっそう早くなっていた。
その後も、その他の趣味、時事ネタ、テレビ番組と、なにげない話が交わされた。機械的な作業も、あっという間に感じられた。