第四十六話
「違うんです………………あの、もう一度」
「ん?」
ぼそぼそと呟いた声が聞き取れず、聴覚神経の全てを彼女へ傾けた。
「和歌と……呼んでくれませんか?」
一瞬聞き間違いかと思った。
だが彼女は確かにそう言った。
今度は俺の方が雷に打たれたように動けなくなってしまった。
彼女が俺の服を少し、ほんの少しだけ引っ張る。
「あっ…………よろしいのですか? 呼び捨てでも」
引っ張られた感覚で現実へと意識が帰り、俺は目をしばたたかせた。
「はい」
こくりと頷く彼女。
頭がぼうっとしていた俺も、ここでふと気が付いた。
(何故名前を呼ぶのに一々戸惑っているんだ。名前を言うぐらい大したことないだろう)
今までだって社内の女と普通に会話してきたじゃないか。
性に目覚めた中学生でもあるまいし。
それにこれはいい機会だ。
どうせなら他人行儀な敬語も止めてしまえばいい。
「それでは……和歌。お互いリラックスして話すのに、敬語だと何かと不便でしょう。これからは気楽にお話ししませんか?」
実にスマートな言い方で、敬語を止めるよう彼女に伝えた。
「……はい、あっ……うん。……えと……………………」
俺の名前を忘れたわけではないと分かっているが、つい困り顔の彼女を見ていたくて、敢えて助け船をださなかった。
細い爪楊枝をきゅっと握りしめ、口を横に引き結んでいる姿を堪能した俺は、眉尻を下げてふっと笑った。
「俺のことは、ルークと」
「ル、ルーク……けほっけほ!」
「大丈夫か?」
「うん……大丈夫。ありがとう」
そういえば、今日はあまり彼女の体調が芳しくなかったな。
しかしそうだと分かっていても、俺にしては珍しく我儘を通し、「食べ終わったら湖の回りを散歩しないか」と提案した。
この素晴らしい時間がずっと続けばいいのにと思ったからだ。
彼女は二つ返事で了承してくれた。