04
「山田くん、仕事キツイ?」
その質問にわずかに彼が目を丸くする。返事を待たないで私は続けた。
「ごめん、山田くんができる子だからって、少し仕事を任せすぎてたかも」
いつも笑顔で、スマートに成果も残して。だから気づかなかった、気づけなかった。彼はまだ入社して二年目で、しかも帰国子女というのはプラスの面ばかりじゃない。
大変なことだってあるのを、彼は努力で補おうとしているのを私は知っていたのに。プライベートで一緒に過ごしていたのに。
「そんなことありませんよ。仕事は今のままで大丈夫ですから、市子さんが気にする必要ありません」
「でも」
「本当に大丈夫ですから!」
食い下がろうとすると強い言葉が飛んできたので、思わず息を呑んで押し黙る。彼にしては珍しく感情任せの物言いだった。
勢いからだったのか、彼ははっと我に返ると、頭をくしゃりと掻いて、ベッドに腰かける。私はその場で佇んだまま動けない。
「すみません、八つ当たりです。……市子さんにだけは、見られたくなかったんです。こんな自分」
頭を垂れたまま発せられた声はどこか自嘲的だった。表情も読めず、こんな彼を見るのは初めてでどうすればいいのか分からない。
黙っている私に彼は少しずつ気持ちを吐き出していく。
「仕事が原因じゃないんです。自分がどうしようもなく嫌になって嫌いで。俺、余裕なんて全然ないんです。自分でも驚くほど欲深くて、負けず嫌いで、ずるくて」
「いいと思うよ」
山田くんが弾かれたように顔を上げたので、ようやく視線が交わった。私は軽く笑って腰を落とすと彼と目線の高さを合わせる。まるで小さい子どもに言い聞かせる体勢だ。
「欲深くて、負けず嫌いなの、いいと思うよ。すっごく営業向き! それに度合いにもよるけど、多少のずるさも必要だよ。相手に納得させて物を売るんだから、素直さだけじゃやっていけないって」
私は努めて明るく告げた。彼が望んでいるのはこんな言葉じゃないのかもしれない。見当違いなことを言っているのかもしれない。けれど彼の職場の先輩として、私だから言える言葉だった。
「それにね、こんなこと言ったら山田くんは気を悪くしちゃうかもしれないけど、少し安心した。山田くんも人間なんだなーって」
「なんですか、それ。俺は市子さんに人間じゃないって思われてたんです?」
むっとした表情に、私はつい笑ってしまった。今の山田くんは、スウェットを着て少し髪も跳ねて、その姿は会社で見るよりもどこか幼く無防備で、なによりすごく素のままだ。
だから私も変に構えず、素直になれた。
「だって、顔も経歴も性格も申し分なくて、おまけに仕事まで余裕をもってこなされたら、先輩として私、立つ瀬なしだよ。だから、山田くんは不本意かもしれないけれど、弱音とか聞けてよかった」
なんとも自分本位で申し訳ない。でも、ずっと厳しい顔をしていた彼が、少しだけ困ったように笑った。
「市子さんが、俺を褒めてくれたの初めてですね」
「そう、かな?」
申し分ない、と言ったのは褒めたうちに入るのだろうか。みんなが口々に彼の顔や性格を称賛するので、今更私が口にするまでもないと思っていた。
ましてや本人にわざわざ伝えることでもないと思っていたけれど、彼についてはちゃんと評価している。山田くんは顔をくしゃりと歪めた。
「そうですよ。嬉しいです。今まで、かっこいいとか、優しいとか飽きるくらい言われてきましたけれど、市子さんにも認めてもらったのが、一番嬉しいです」
心の底から嬉しさが溢れる眩しい笑顔だった。そこで私は思い直る。私はちゃんと先輩として彼を評価しているものの、それを直接彼に伝えていなかったのかもしれない。
「私、あまり口にはしなかったけれど、山田くんはすごく頑張ってると思うし、十分に優秀だよ。私が入社一年目のときなんて、全然契約なんてとれなくて。先輩にお客さまを回してもらうんだけれど、『あなたじゃ頼りないから担当を替えて』なんて言われたこともたくさんあるし」
「そうなんですか!?」
「そうだよ」
信じられないという顔をしている彼に私は口を尖らせる。正直、今でもたまにあるのが悲しいところではあるけれど。なんだかいつもの調子を取り戻してきたので、私は安堵の息を漏らしながら立ち上がった。
「なにがあったのか分からないけれど、あまり自分を責めないでね。自分が嫌い、だなんて。お客さまでも、社員たちでも、山田くんのこと好きな人いっぱいいるよ」
そこで私は喉元まで出かかった言葉を、声にするかどうか一瞬だけ迷った。けれど結局、口にする。
「……それに、私も山田くんのことが好きだよ」
彼の大きな瞳がさらに見開かれ、急いで視線を逸らす。自分で言って羞恥心が体中を一気に駆け巡った。その衝動のおかげで慌てて付け足す。
「あの、変な意味じゃなくてね。ちゃんと先輩としてというか、人間としてというか……」
だって、先輩として彼を直接評価しなかったのを反省したばかりだから。それに彼は今、弱っていて自己評価がどうも低くなっているみたいだし。
自分で自分に言い訳を並べ立てる。彼にとっては、そんな大きな意味をもたないはずだ。だから余計に言った本人である私が狼狽えているのが自意識過剰で恥ずかしい。
彼と目を合わせられないままでいると、ベッドに座っていたはずの彼が立ち上がったのが気配で伝わり、さすがに様子を窺おうとした。
しかし次の瞬間、彼の腕の中に閉じ込められていたので、まさかの展開に私の頭はフリーズしかけた。
「市子さん、こんな俺ですけど頑張りますから、もうしばらく今のままでいいですか?」
抵抗しようにも彼の真剣な声が吐息混じりに耳に直接届いて、体が勝手に震えた。思ったよりも力強い腕に身動きひとつできず、伝わってくる体温は熱い。
彼の背中に腕を回すのも憚れ、空いた手は宙を彷徨いながら言葉を必死に探した。
「うん、いいんじゃないかな」
尋ねられた質問の意味もよく理解できていないのに、なんとも適当なのもいいところだ。でも今の彼にはこの答えでいいんだと思う。落ち込んでいた気持ちが浮上できたのなら、それでいい。
ゆっくりと回されていた腕が解かれ、密着していた箇所に名残惜しさを伴いながら空気が流れ込む。そして彼の大きな手が私の頬に触れた。
「市子さん、ありがとうございます。俺、頑張りますから」
「頑張りすぎなくていいよ。ほら、まだちゃんと横になって」
本調子ではなさそうなのは明らかだ。顔色だってあまりよくない。山田くんをベッドに戻そうと軽く肩を押そうとしたら、逆にもう片方の手を腰に回されて距離を縮められてしまった。
「市子さんの顔を見たら元気になりました」
「さっき、見られたくなかったって言ったじゃない」
「もう忘れました」
やっと抗議の声をあげられたが、彼は笑顔を崩さないまま私の額に唇を寄せた。唇の感触に胸が締めつけられる。
「ここは日本なんだけれど?」
「そんなのとっくに知ってます」
お決まりのやり取りをして脱力する、けれど、ホッとしたのも事実だ。やっぱり山田くんはこっちの方がいい。
明日、休むように勧めたけれど、彼は頑なに出社すると言い張るので、それなら今しっかりと休むように、と告げて私はさっさと彼の家を後にした。
すぐ隣の自分の家に帰り、いつものソファに行儀悪く身を預けた。疲れと安心がどっと降りかかる。なにはともあれよかった。山田くんになにもなくて、久しぶりに話せて。
しかし、私はどうも引っかかっていた。少しだけ彼に突っ込んでみたけれど、忘れたと言われてしまったあの言葉。
『市子さんにだけは、見られたくなかったんです』
なら、誰ならよかったんだろう。今回は、たまたま彼の弱っているところに遭遇し、私なりに励ますことができた。でも、次にこんなことがあったら? また苦しくなったら?
私じゃ駄目なんだ。異性の、ましてや職場の先輩である私には、弱いところをさらけ出すのは難しいに決まっている。ましてや仕事ではなくプライベートなことでなら尚更。
逆に私だって、職場の男性の先輩になにか訊かれても、たいていは大丈夫です、と答えてしまうと思う。元々、誰かに甘えたり、弱音を吐くこと自体ものすごく苦手だし。
でも彼にはきっと、甘えたり弱音を吐きだせる相手が必要だと思う。顔も性格もよくて、余裕がありそうだと周囲に思われてしまう性質だから余計に。
もしも同期なら、たとえば西野さんにだったら、弱音とはいかなくても愚痴くらいは言えるのかな? 違う部署だし。断る理由とはいえ、彼女には調子が悪いとはっきり言えたわけだし。
遠慮された自分が、なんだかたまらなく悲しくなった。けれど、私じゃなくてもいいじゃないか。西野さんでも、西野さん以外の誰かでも。
そんな相手が彼に見つかることを願いながら、いつまでも心に渦巻く冷たい感情が離れてくれることはなかった。