03
気のせいでなければ、私が会社に入社したきかっけを話したあの日から、山田くんと仕事以外の話をしていない。正確に言えば、する暇がないというべきか。
彼はいつも以上に忙しそうで、外への出入りも激しいみたいだ。
契約を取れるのはもちろんいいことだけれど、その分抱える顧客が増える。それが重なれば忙しくなるのは当たり前で、それにしたって……。
「山田くん!」
さっき帰って来たと思ったら、また出て行こうとする彼を走って追いかけ、社員専用の通用口で息急き切って呼び止める。
「どうされました?」
「最近、忙しそうだけれど大丈夫? 無理してない?」
「大丈夫です。すみません、少しお客さまとの約束が立て込んでいて」
私とは対照的に冷静に返される。私は改めて彼の顔をまじまじと見た。
「でも顔色悪いよ。ちゃんと食べてる?」
「ご心配なく。心配かけてすみません」
彼はさっさと背を向けて行ってしまった。昨日、メンテナンスでいらしゃったお客様は随分と長く居座っていたみたいだし、その相手をずっとした後、たしか別のお客様のところに行っていた。
それにしても、なんだか妙によそよそしく感じてしまうのは、私の思い過ごし? いや、今のやり取りもべつにおかしいところはなにもないし、丁寧に返してくれたとは思うのだけれど、以前のやりとりを考えると……。
そこで私は自分の手を強く握った。だから嫌なんだ。ただの先輩と後輩だったら、今のやり取りに対して、なにも思うことはなかったのに。
こんな不安みたいな気持ちに駆られるのもなかった。逆に名づけられるはっきりとした関係なら、どうしたの?って踏み込めるのに。それでも曖昧な関係を望んだのは私だって同じだ。
彼だって人間なんだから、いつも機嫌よく調子がいいとも限らないよね。そう結論づけて、私は自分の仕事に戻った。
一日の業務を終え、私服に着替えてから更衣室を出る。ふっと気が抜けて廊下で思いっきり伸びをした。そして出口の方に向かっていると、西野さんともうひとり受付担当の
私に気づいたのは西野さんが先で、お疲れさまです、と頭を下げる。それにならって宮本さんも頭を下げた。
「お疲れさま、どうしたの?」
「いえ、これからご飯に行こうって話してて」
「仲いいね」
それ以上、話すこともない。けれど、西野さんではなく宮本さんの方が話を続けた。
「私は代わりなんですよ。山田くんを誘ったんですけれど、今日は調子がよくないから帰る、って断られちゃったみたいで」
「ちょっと!」
喋りすぎる宮本さんに対し、西野さんが本気ではないにしろ、怒った顔を見せた。宮本さんはそれをものともせず、さらに笑いながら茶々を入れる。
けれど、私は笑えなかった。山田くん、やっぱり体調が悪かったんだ。
どうしよう、と思いながらもその場を過ぎて、一度自分のデスクに戻る。今日は直帰する人が多いからか、営業部は無人だった。
一応、連絡しておくべきかな?……先輩として。でも調子が悪いのに下手に連絡して気を遣わせてしまっても……。
悶々と悩んでデスクにおいてあった封筒を抱える。そこでなにげなく彼の席に目を向ければ、あるものに気づいた。
机の上のメモの横に黒い携帯が置かれている。彼自身のものではなく、会社から渡されているものだ。基本、お客さまとのやりとりは、自分の携帯ではなく会社から支給されるこの携帯を使ってやりとりする。
ガラケータイプのものだが、電話料金なども会社持ちだし、プライベートときっちり分けられるのは有り難い。中には個人の番号を教えてくれ!なんてお客さまもいたりするけれど。
きっと彼にもそういうお客さまは多いんだろうな。とにかく、お客さまの連絡はすべてこの携帯にかかってくる。
点検の予約変更や、車のトラブルについてなど、退社していようが、休みだろうが、いつかかってくるか分からない。
私はしばらく悩んだ末、手を伸ばして携帯を取り、そっと自分の鞄にしまった。
ついこの前まで暑さにむかむかしてクーラーが欠かせなかったのに、いつの間にか秋が訪れ、上着が必要な季節になっていた。
急激な気候の変化になかなか対応できず、どうしたって体調を崩しやすい。不規則な仕事でもあるし。今更ながら、彼に対する配慮が足りなかったと悔やむ。
そして、帰宅してから携帯を確認するも、彼からの返信はなかった。やっぱり寝ているかな? でも、いつまでも彼の携帯を持っているわけにもいかないので、ドアポストに直接入れておこうと決める。
携帯に連絡を入れてあるので、それに気がつけばあとは大丈夫だろう。もしかしたら先に、この携帯にお客さまから電話があるかもしれないし。
一応、チャイムを鳴らしてみるものの、やはり出てくる気配はなかった。留守かな。でも調子が悪いと言って同期の誘いを断っているわけだし。
とりあえず小さな紙袋に入れてきた携帯を、なんとかドアポストに入れようと試みる。そこで、ふと心臓が早鐘を打ちはじめた。彼のいつかの発言が頭を過ぎったから。
『もしも俺になにかあったら、そのときはよろしくお願いしますね』
いやいや、ちょっと待て。それは洒落にならないから!
すかさず脳内でツッコミを入れたものの、一度生まれた不安の芽はぐんぐんと大きくなるだけだった。その可能性が百パーセントない、なんて誰が言い切れるの? もしも本当に彼になにかあったら……。
どれくらいの間、ドアの前で固まったままでいたのか。意を決した私は、自宅に戻って大事にしまってあった彼の家のカードキーを手に取った。
彼から頼まれて、このカードキーを預かっているんだ。こんなときに使わないでどうするの? なにもなければ、それでいい。少し様子を見るだけ。
必死で自分に言い聞かせて、緊張しながら彼の家のドアの鍵を開けた。いつも会うのは私の部屋で、私の預けた鍵で彼が先に中に入っている場合も多い。彼はこんな居心地の悪さを感じていたのかな。
信用されている、と思えばいいのかもしれないけれど、付き合ってもいない異性の家の鍵を使うなんて。
慣れた解錠音と耳にして、私はゆっくりとドアを開ける。暗い玄関に、外からの明かりがそっと差し込んだ。彼の靴があるのを確認し、さらに緊張が増していく。
「こんばんは」
挨拶をしてみるも、暗い廊下にその声は吸い込まれていった。自然と唾を飲み込み、私は靴を脱いで、彼の部屋に上がる。
部屋の構造は当たり前なんだけれど、私の部屋とまったく同じだ。ここには一度だけ上がったことがある。そう、彼との奇妙な関係を築くきかっけになったあの日以来だ。
寝室をノックするも、返事はない。扉の向こうを想像し、不安と緊張で胸がどんどん痛くなる。躊躇いつつも、私は思い切って部屋を開けた。
そして、静かにドアを開けて私は思わず目を見張った。前に来た時とは、大分印象が違う。普段の彼からはあまり想像がつかないような部屋の乱雑さだった。
部屋の角にある本棚は、すでにいっぱいで、床やベッドサイドテーブルのあちこちに本や資料が散らばっている。
肝心の彼はというと、固く瞳を閉じてベッドで横になっていた。本を踏まないように気をつけながら、そばまで近寄ってみる。
その顔は随分と険しいものの息もしているし、苦しそうというわけでもなかった。
ほっと息をつく。部屋の電気はついていないけれど、サイドテーブルに置かれている電気スタンドが穏やかに部屋を照らしていた。
私はふと、積み上げられている本に目を遣った。
『ビジネス敬語のマナーとルール』『社会人として使いこなす正しい日本語』『お客様から信頼される営業の心得』『信頼してもらえる話し方』など、タイトルからして仕事に関する本ばかりだ。
付箋や書き込みがされて必死で読んでいるのが伝わってくる。資料の束は、他社のものばかりで、おそらく色々と比較するために調べたのだろう。
そんな中、本棚の一番隅に立てられている、一際年代を感じさせる資料が目に入った。随分古いからか、なにかを感じて目を引いた。
うちのカタログだ。こんな何年も前のものがどうしてここにあるんだろう。大事そうに綺麗に保管されている。もう一度部屋の中をくるっと見渡し、上手く言葉では言えないのだけれど、私はなんだか泣きそうになった。
そのとき、突然持ってきていた彼の携帯が音を立てて鳴ったので、心臓が口から飛び出そうになる。
メロディーではなく普通のピリリリリという機械音だから、余計に響く。わたわたと入れていた袋から取り出そうとしたところで、ここにきてベッドが動く音がした。ゴソゴソと擦れる音のあと、彼が勢いよく身を起こす。
「え!? え、市子さん!?」
まったく状況がつかめず、どこか寝ぼけている彼に、私は非情にもまだ鳴り続けている携帯を差し出した。
「ごめんね、説明はあと。とにかく出てもらっていいかな?」
山田くんは素直に携帯を受け取り、喉を押さえて声の調子を整えた後、通話ボタンを押して立ち上がった。私に背を向けて話している声は、やはり疲労が滲んでいる。
どうやら留守電に入れていたお客さまからの折り返しの連絡のようだ。しばらくやりとりした後で電話を終え、私は訊かれる前にこの状況を説明した。
彼が仕事用の携帯を会社に忘れていたこと、ドアポストに入れようとしたけれど、つい心配になって預かっていたカードキーで様子を見に来てしまったこと。
もちろん勝手に入った件はきちんと謝る。彼は深く息を吐いて、私と視線を合わせないまま首を軽く横に振った。
「こちらこそ、すみませんでした。わざわざありがとうございます」
そこで妙な沈黙が部屋を包む。まだ体調が悪そうな彼を前に、今するべきことはさっさと退散することだ。それでも、私はどうしても訊かずにはいられなかった。