04
暑い。いや、熱い? おぼろげな意識が捉えたのは、まずはそれだった。じっとりと肌に汗が浮かぶ。無意識に額を拭ったところで、私は瞼を開けた。
見慣れた天井が目に入り、ほっと息を吐く。それにしても、暑い。私は暑がりでクーラーのタイマー機能なんて使ったことがないほど、夏場は家にいる間はずっとエアコンをつけっぱなしにしている。
車のエコ機能を必死にお客さまにアピールしておきながら、自分は真逆なことをしているのが笑えるが、とにかく、なんでもいい。
エアコンのリモコンを探そうと顔を横に向けたとき、私の目にはとんでもないものが飛び込んできた。
その衝撃は、息も心臓も止まりそうになったほどだ。おかげで弾かれたように身を起こし、急いで自分の見たものが幻ではないことを、夢ではないと確認する。
私の隣では綺麗な顔をした青年が眠っていた。やはり暑いからかその瞼は閉じられているものの、眉間に皺が寄っていた。
そんな彼の顔を冷静に観察しつつ、思わず叫びそうになりそうなのをぐっと堪える。久しぶりにパニックというものに陥った。
訳が分からない。いや、分かっている。ドラマや漫画でも定番のパターンだ。でもそういうのは、たいてい見知らぬ誰かとか、意識を飛ばす直前まで一緒にいた人とか、そういうものじゃない?。
なぜ彼なの!? 人違い? そんなわけない。
自問自答を繰り返してみるけれど現状はなにも変わらない。
私の隣で眠っている青年は、直接私が指導にあたっていて営業部の、ひいては社内で男女問わず人気がある山田一悟だった。
やや癖のある茶色い髪は、その顔を少し隠していた。くりっとした大きな瞳は今は閉じられているものの、影ができるほどの長い睫毛がその存在を主張している。
すっと通った鼻筋、荒れ知らずの唇。きめ細やかな肌は、触ってみたいと女子たちが話題にしていた。
今更ながら、シーツの合間から覗く彼の肌はそのまま晒されていて、私自身も下はつけているものの、上はなにも身に纏っていない。
分かりやすすぎるシチュエーションに気絶しそうになった。
なんだって、よりによって社内の、しかも後輩の男の子とこんなことになってしまうの。
そこで彼の瞳がゆっくりと開かれたので、思わず息を呑んで固まってしまう。
彼はどこか寝ぼけ眼で、いつも会社で見せている溌剌《はつらつ》さは微塵もない。焦点が合わないままゆっくり身を起こし、私と視線の高さがそろったところで、ようやく目が合う。
そこで彼の目がこれでもかというくらい大きく見開かれた。わっ!っと驚いた声まであげられる。
どうやら彼にとっても、この状況は予想外らしい。私は、もうなんて言えばいいのか分からなかくて、ただただ気まずさだけを覚えた。
そのとき、青くて薄いシーツが体を隠すように肩に乱暴にかけられる。ひんやりした感触に一瞬にして熱が奪われた。どうやら、今流行りの接触冷感寝具らしい。
彼は私から視線を背けた状態で、おもむろに立ち上がった。
『俺、シャワー浴びてきますから、とりあえず服を着てください』
下を着ていた彼はそのままベッドから下りると、そそくさと部屋から出て行った。どうやらここは彼の部屋らしい。
私は大きくため息をついて、ベッドの下に置いてある服に手を伸ばした。几帳面に畳まれているのを見て、ますます自分のしてしまったことが情けなくなる。
どういう経緯かは分からないが、私はどうやら後輩に手を出してしまったらしい。仮に出された側だとしても、彼のあの態度を見れば、望んでこんな状況になったわけではないのは一目瞭然だ。
ここは、年上としても先輩としても私が変に動揺を見せてしまってはいけない。部屋の窓は網戸にされていたけれどそんなものは意味がないほど暑かった。
しかし文句は言えない。おとなしく昨日と同じ服を身に纏い、ベッドに腰かけて彼が帰って来るのを待った。
このまま帰ってしまいたい気もしたけれど、これが行きずりの相手ならまだしも、彼とは職場も同じなのだからこの場を逃げてもしょうがない。
暴れ出す心臓を必死に落ち着かせて現状を把握しようと必死だった。
思ったよりも早く、彼はさっさとシャワーを浴びて部屋に戻ってきた。相変わらず上半身は晒したまま、乱暴に髪の毛の水滴をタオルで拭っている。
その姿は、なんとも言えぬ色気を孕んでいたが、私は違う意味でドキドキしていた。
『すみません』
先に口火を切ったのは彼で、突然の謝罪の言葉に私の心臓が跳ね上がる。なにかを口にしようとしたところで彼は続けた。
『うち今、エアコン壊れてて。電気屋さんも忙しい時期みたいで、なかなか修理に来てもらえないんです』
『そう、なの』
まさかの謝罪内容に私は虚を衝かれた。今、謝るのはそこ? それとも話を逸らそうとしている?
暑くて働かない頭を懸命に動かし、私は彼に説明を求める。
『ここ、山田くんの家?』
『そうですよ。昨日、同期との飲み会だったんですけど、驚きました。帰ってきたら隣の家の前で御手洗さんがうずくまっていたので』
『隣!?』
私は思わず叫び、そこで改めて部屋を見渡す。見慣れた天井だと思っていたのは、同じマンションだからだ。それにしても、隣に山田くんが住んでいたなんてまったく知らなかった。
話を聞けば、彼がここに越してきたのは二週間前らしい。お隣さんが越してきたな、とは思っていたが、まさかそれが彼だなんて思いも寄らなかったし、忙しくて挨拶もとくにしていなかった。
『迷惑かけてごめんね』
とりあえず謝る……しかない。ようやく話が見えてきた。
彼は頭を拭いていたタオルから手を離し首にかけると、こちらにじっと視線を寄越してきた。
『かまいませんよ。昨日のこと覚えてます?』
まっすぐに見つめられ、私は静かに首を横に振る。本当になにも記憶がない。とはいえ、なにがあったのかくらいは容易に想像がつく。
私は仕事では考えられないような弱々しい声で続けた。
『あの、本当に申し訳ないんだけれど、このことは、なかったことにして……欲しいの。その方がお互いにとっていいと思うし。私も』
『嫌ですよ』
懸命にした提案をさらっと拒否され、私は#俯__うつむ__#きがちになっていた顔を上げた。彼はなにやら難しそうな顔をしている。
『お互いの気持ちはどうであれ、やっぱり責任問題も発生しますし』
『いやいやいや、そんな真面目にならなくても。私は全然気にしないから』
私はすぐさま全力で否定した。たかだか一夜の過ちで責任だなんて。子どもができたわけでもあるまいし。可能性が一瞬だけ頭を過ぎったが、その心配はなさそうだ。
なんてフォローしようかと頭を悩ませていると、彼はあっけらかんとした口調で返してきた。
『いえ、御手洗さんの問題ではなくてですね』
『え?』
脳の処理が追いつけずにいると、そこで改めて彼と視線が絡み合い、動けなくなった。続けて彼の口から衝撃的な一言が発せられる。
『実は俺、ハジメテだったんですよね』
『……はい!?』
時間にするとたった数秒。それでも私が反応を示したのは、たっぷりと間が空いてからだった。
『あの、全然面白くないんだけど』
『当たり前ですよ、真面目に言ってるんですから』
なんの冗談かと思って彼を見るが、その顔は真剣そのものだ。
いや、だって偏見かもしれないけど、日本よりあっちの方がそういうのってよっぽど進んでいるもんじゃないの?
それを差し引いたって彼の外見で彼女がいたことがないとも考えにくいし。なにか宗教的な事情? それとも……。
『言っておきますけど、同性が好きとか信仰の問題とか、そういう話じゃありませんから』
私の顔色を読んだらしく、彼が補足してきた。おかげで混乱しながらも、徐々に事態を把握していく。
つまり、私は助けてもらっておいて彼の貴重な初めてを奪ってしまったらしい。しかも奪った本人にその記憶はまったくないという。
『ごめん、ね』
もう予想外すぎる展開に、私はただ謝罪の言葉を口にするしかできない。すると彼は静かにかぶりを振った。
『謝らないでください。ああは言ったものの俺は男ですし、大人なわけですから。でもあまりにもあっさりなかったことにされるのも……』
『複雑、だよね』
もし自分が逆の立場なら、ついてないの一言では済まされない。よりによって付き合ってもいない職場の先輩が、私が初めての相手だなんて。
山田くんみたいに、その気になれば相手を選び放題な立場にいるなら尚更だ。そういう意味で、彼ならあっさりと初めての思い出を塗り替えることができそうだけれど。
と、さすがにそれを私が口に出す立場ではないのは重々承知しているので、心の中だけで留めておく。
『私、どうすればいいのかな?』
いつもと立場がまるで反対で私が彼に質問し、答えを乞うた。すると彼は少しだけ考える素振りを見せる。
まさかお金なんて言うようには見えないけれど。少しだけ緊張した面持ちで彼を見つめているとその口がゆっくりと動いた。
『とりあえず、お互いを知るところから始めませんか?』
『私、山田くんとは知り合いだと思ってたけど?』
彼が入社してきて私たちが知り合い、もう一年になる。そんな彼と一体、なにを始めるの? すると彼は少しだけ困ったような表情を浮かべた。
『もっと、ですよ。せっかくですから、この機会に俺のことを知ってください。俺も御手洗さんのことを知りたいです』
責任と言いながらも、私になにかを求めるような内容ではない。どちらかと言えば、彼が自分で自分の行為に責任を持とうとしている。
たった一夜の過ちに価値を、意味を見出そうとしている。
馬鹿みたい、といつもなら一蹴しそうだが、あまりにも真面目な彼に、このときはそんな彼に付き合うのが、私の責任なのではないかと思ってしまった。それにしたって、
『知ってどうするの?』
お互いを知ったところでどうするんだろう。それで彼が納得するならべつにかまわないけれど。
彼は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
『なにかが変わるかもしれませんよ?』
それがなんなのかは分からない。いつもなら面倒くさくて、突っぱねそうなのに。
助けてもらったからか、年上で先輩という自分の立場からか、私は珍しくも素直に彼の提案に乗ることにした。
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