03
着替え終わったところで回想を終了させる。
グレーのシャツに黒の七分丈のパンツ。およそ可愛らしさもないパジャマも兼ねた部屋着だ。そしてリビングに戻るとこたつも兼用できるローテーブルの上には所狭しと料理が並んでいる。
メインのハンバーグの付け合わせはポテトサラダとニンジンやブロッコリーのグラッセ。まさにお店で出てくるかのような出来栄えだ。
「ご飯、入れてもいいですか?」
「お願い」
台所からひょっこり顔を出した彼に短く返答する。何度も言うが、ここは私の部屋なのに台所においては、彼の方が使いこなしていると思う。
お味噌汁とご飯、そしてお箸をお盆に乗せた彼がやってきたので、さすがにそれをテーブルに置くのは手伝った。
どれも適当に百円ショップで買いそろえた食器だ。統一性なんてまったくない。私たちは向かい合わせに座っておとなしく手を合わせて夕飯を食べることにした。
「市子さんの作ったソース美味しいです。俺、この味好きかも」
「そう」
ちらりと彼を見遣った。スーツを着ていない彼はいつもより若い、というより幼いように感じる。大学生と言っても通用しそうだ。
涼し気なボーダーシャツと同じ色の紺のパンツ。Tシャツの袖から覗く腕は、普段は隠れているが、なかなか逞しい。細身ながら、筋肉はわりとあるようだ。
「お味はどうですか?」
「美味しいよ。このポテトサラダの味付けってなに?」
彼の作ったポテトサラダは私の知っているものとは少し違った。じゃがいもは潰していないし、味はマヨネーズではない。さっぱりしていて食べやすかった。
「マスタードと白ワインビネガー、あとコンソメです。あっちでは定番なんですよ」
あっちというのが彼が住んでいたヨーロッパだというのはすぐに分かった。ドイツがジャガイモ料理が盛んなのは私でも知っている。
彼曰く、スーパーでもじゃがいもは、他の野菜と比べて別格なんだとか。
「でも俺、日本では定番のポテトサラダも好きです。市子さんが作ったのを食べたいので、今度作ってください」
ちゃっかりとお願いされて私は箸を止めた。一瞬だけ迷ったが、ここまでご飯をしてもらっている状況で、なんとも断りづらい。
べつにこちらが頼んだわけでもないけれど。私はポテトサラダに箸を伸ばした。
「いいけど、リンゴ入ってるよ」
「いいですね。楽しみにしています」
戸惑う様子もなく彼はいつもの笑顔を浮かべて返してきた。その笑顔はやっぱり太陽みたいだった。
彼が私をどう思っているのか、それを私はいまだに尋ねたことがないし、確認したこともない。そもそもそんな必要さえあるのか。
同じように私だって彼に気持ちを伝えたこともないし、伝えるどころか自分が彼をどう思っているのか、私自身不明瞭なのだからしょうがない。
それなら、どうして私が彼とこうして自宅でご飯を一緒に食べているのか。こんな恋人まがいなことをしているのか。
すべてのきっかけは一か月前、あの夜の出来事のおかげで私たちはこんな妙な関係を築くことになってしまった。
※ ※ ※
強い日差しをぶつけてきた太陽が姿を隠しても、残していった暑さは消えない。茹だるような暑さに、ブラウスが肌にじっとりと張りつくのが不快でたまらなかった。
でもしょうがない。どんなに暑くても寒くても、雪が降ろうが槍が降ろうが、お客さまの希望があるならどこまででも行く。それが営業である。
覚悟していても、とくにその日は最悪だった。
付き合っていた二歳年上の彼にいきなりメールで別れを告げられ、もうすぐ本契約まで漕ぎつけそうだった先方に土壇場で断られてしまったのだ。
社用車として数台まとまっての契約だったので、これを落としたのはかなり痛い。
ここに至るまで何度も何度も足を運び、先方に納得してもらえるよう、他社と比較した分かりやすい資料を作成して、説明してを繰り返したのがすべて水の泡だ。
さらに悪いことはそれだけじゃなかった。とにかく
そこまでお酒に強いわけでもないのに、私は自暴自棄になっていた。行きつけのバーで翌日が休みなのをいいことに、強いお酒をガンガン
マスターや周りのお客さまに心配されるほどに。
それでも店を出て家路につくまでは意識をはっきりと保っていた。タクシーを拾い、受け答えもしっかりして自分のマンションに帰ってくる。
人の気配よりも虫たちの声の方が大きい。
早く部屋に入ってエアコンをつけようと躍起になったところで、とんでもないミスが発覚した。
会社の鍵などをまとめているキーケースが鞄の中にない。一瞬、落としたと焦ったが、すぐに会社に置いてきた可能性の方が高いと気づく。
そのキーケースには自宅の鍵も入っているのに。会社に戻ろうかとも思ったが、鍵がないのでは意味がない。
私はなにもかもが嫌になってその場にうずくまった。体が重くて熱いのは、この外気のせいなのか、アルコールのせいなのか。
必死で存在をアピールしてくる蝉の声が耳につく。とにかく蚊が嫌だ。とりあえず車に移動しようと立ち上がるが、よく考えれば飲むために会社に置いてきたのでその選択肢も消える。
不意にふっと目眩がして、その場に腰を落とす。今更ながら、アルコールが回ってきたようだ。情けなくて、目の奥がじんわりと熱くなりかける。
踏んだり蹴ったりもいいところだ。彼、正確には元彼に助けを求めようかと思ったが、そんなのはどうもプライドが許せなかった。可愛くない。だから愛想を尽かされた。
『少し距離を置きたい』
携帯に送られてきたメッセージを思い出す。あまりにも端的なメッセージ。ここで、なんで?どうして?と理由を訊けばなにかが違っていたのかもしれない。
しかし、私の返したメッセージもこれまた端的だった。
『それって別れたいってこと?』
それに返ってきたのはたった一言。ごめん、と。それだけ。それ以上の返信を私はなにもしなかった。付き合って一年と少しだった。
合コンで知り合った彼からの強いアプローチで付き合い始めた。それなりに楽しかった。とはいえ結婚を意識するほどでもなかったし、私はなんだかんだで彼よりも仕事を優先してきた。
呆気ない終わりが自分たちの付き合いの浅さを物語っている。
苦しくて、胸が痛い。でも、原因は彼と別れたからじゃない。それだけなら、私はきっとこんなふうになっていなかった。
今、私の心を覆う悲しみは、契約を取れなかったことの方が大きい。そんな自分が薄情で嫌気が差す。
ずっとすれ違ってばかりで、心のどこかでもう駄目かも、と思っていたところもあった。だから、こうなったのは自業自得だ。恋愛も仕事も上手くいかないのは、全部、私が悪いんだ。
アルコールと共に卑屈さが冷静さを奪っていく。ふらふらして、気分が悪い。どうしよう。
だらしなく、床に足をつけてドアにもたれかかる。これはなにかの罰なんだろうか。思考も平衡感覚もおかしい。
そのときエレベーターが四階につく音がした。誰かが近づいている気がするけれど、そちらを向く力も残されていない。
ああ、呆れられてしまう。せめてなんでもないかのように振る舞わないと。
ここでも私は助けを求めることよりも、くだらない見栄が先に立つ。
ところがそれも意味がなかった。はっきりとは分からない、けれど私の意識はいつのまにかブラックアウトしていた。
嫌いになるにはなにかしらの理由があるのに、好きになるのにはこれといった理由がなくてもいいらしい。“いつのまにか”そんな言葉が許される。
そんな始まりがいつかも分からない感情に、支配されるのは嫌だ。じわじわと毒が回るように侵されて、中毒みたいにそれなしでは生きていけないなんて。
それを恋と呼ぶなら、私は恋をしたことがないし、していない。自分の性格的にきっとこれからもできないと思う。