02
「お帰りなさい、市子さん。ハンバーグはデミグラスソースとケチャップとどちらがいいですか?」
ドアを開けると、そんな彼がエプロンを身にまとい、極上の笑顔を向けて出迎えてきた。ハンバーグの焼けるいい匂いが鼻孔をくすぐる。
「……ケチャップとウスターソースを混ぜたやつ」
提示された選択肢のどちらでもない答えを告げながら、私は無表情で靴を脱ぐ。ここは正真正銘、私の家だ。彼は私の意外な回答に、たたずんだまま難しい顔をしている。
「ケチャップとウスターソースですか。どれくらいの割合で混ぜたらいいですか?」
どこまでも真面目な彼に、私は肩を軽くすくめて、その横を通り過ぎた。
「いいよ。ソースくらいは自分で作る。山田くんは好きなのかけて」
「ええっ! 俺も市子さんと同じのがいいです。市子さんの作ったソースを是非、食べさせてください!」
匂いがつくと嫌なので私は制服のジャケットを脱ごうとした。それを察した彼が素早く後ろから手を貸して、受け取る。
絶妙のタイミングにまるで秘書だと思いながら、私はブラウス一枚でキッチンに立った。
エアコンを先につけていてくれたので、思ったような不快感はない。そして最初に注意した通り、換気扇もちゃんと回している。
火を止めたばかりであろうフライパンの中には、楕円形のハンバーグがふたつ。あの女子社員たちが予想ははずれで焦げてはいない。
それを用意してくれていた皿に移すと、肉汁の残ったフライパンに冷蔵庫から取り出したケチャップとウスターソースを適当にいれた。
気持ちケチャップ多めで、みりんを隠し味程度に。火にかけながら混ぜて、ふつふつとしてきたら完成だ。
「私、着替えてくるからあと頼んでいい?」
「了解です。あ、市子さん」
キッチンから出ようとした私を彼が呼び止めた。顔をそちらに向けようとした瞬間、後ろからいきなり抱きしめられる。
ブラウスを隔てて彼の温もりも、腕の力もダイレクトに伝わってきた。そして右頬に温もりを感じる。
「おかえりなさいのキスをしていなかったので」
なんの悪びれもなく、至近距離で微笑まれながら当然のごとく話す彼に私は淡々と返した。
「ここは日本なんだけれど?」
「もちろん知ってますよ」
にこにこと笑う彼に私の嫌味は通じなかったらしい。ため息ひとつついて、彼の腕の中から抜け出す。
寝室でもある自室の電気をつけて、ブラウスのボタンに手をかけながら、自分に起こっている状況に私はいまだに、現実感が湧いていなかった。
そもそも彼の第一印象はあまりよくなかった。もう一年ほど前になるけれど、鮮明に覚えている。
『山田一悟です。よろしくお願いします』
深々と頭を下げる彼は、その年に入ってきた新人の中でも一際目立っていた。外見はもちろん、纏うオーラがほかとは圧倒的に違う。
「特別な人間」というのは、こういう存在を指すのだと本能的に感じた。その彼が営業部に所属となり、私が直接の指導にあたることになったときだ。
『おてあらいさん、ですか?』
初対面で私の胸にあるネームプレートを見て、彼は真面目な顔で尋ねてきた。周りの空気が一瞬にして凍るのを感じながら私は内心で大きくため息をついた。
そんなふうにからかわれたのは中学校のとき以来だ。あいにく、私はここでユーモアたっぷりに切り返す術も持っていないし、そんなキャラでもない。かといって短絡的に怒る人間でもない。
それにしても冗談にしては、まったくもって面白くないし、本気で言っているのだとしたら、彼の国語能力がいささか心配だ。
営業は色々なお客さまを相手にしないといけないのに。見掛け倒しか、と少し残念に思う。
『みたらい、です』
感情をこめずに返すと、彼は途端にしまったという表情になった。どうやら本気だったらしい。
『すみません』
すぐに頭を下げる彼から私は視線を逸らす。
『お客さまにも色々な苗字の方がいるから、安易に思い込みで言わないでね。分からない場合は素直に尋ねて』
『はい』
それからなんでもないかのように、私は仕事の話を始めた。そして周りはどこか彼に同情的だった。理由はその日の夜、本田と飲みに行ったときに判明する。
入社したときから話題になっている彼の情報を、私以上に本田は詳しかった。なんでも彼は、両親の都合でほとんど外国で住んでいたんだとか。だからドイツ語と英語が完璧らしい。
そこで私は昼間の出来事を思い出して納得した。ということはその分、漢字には弱いのだろう。私の苗字を勘違いしたのもしょうがない。
でも彼はそのことを言わなかったし、言い訳しなかった。私が言いづらい雰囲気を醸し出していたのかもしれない。
気にするほどのことでもない。けれど、翌日彼を連れて外回りをしている車の中で私は自ら話題を振ってしまった。
『山田くんって、海外生活が長いんだね』
『あ、はい。よくご存じですね』
視線を向けず運転しながら話しかけると、彼は驚いた声をあげた。私が彼のことを知っているのが意外だったのか、仕事以外の話題を振るとは思わなかったのか、それは定かではない。
一瞬だけ彼に視線を寄越す。
『君、自分が思う以上に話題になってるよ』
『そうですか。帰国子女ってやっぱり珍しいんですかね』
それだけではないのは明白だが、そこはもう突っ込まないことにする。私はさっさと本題に入った。
『昨日、私の苗字を読み間違えたとき、どうしてそのことを言わなかったの?』
『え?』
『海外生活が長いので、くらい言ってくれれば、私もあんな言い方はしなかったんだけど』
ああ、この言い方もよくない。自己嫌悪で密かに顔を歪める。
私はどうもお客さまを相手にすると、いくらでも楽しく会話できるのに、こうして職場の人間、とくに男性を相手にすると、ぶっきらぼうな言い方になってしまう。
上手く対応できず心の中で悔んだ。ましてや自分は女だ。男性が多い営業部で、もっとうまく立ち回らなくては、と常々思っているのに。
とはいえ下手な言い方をして媚びている、と思われるのはもっと不本意だし。
『御手洗さんの指摘は間違っていませんよ。どんな事情であれ、間違えて不快な思いをさせたのは事実です。すみませんでした』
あれこれ思いめぐらせているところで彼はぽつりと呟いた。そこで、ちょうど信号に引っかかったので、私は助手席に座る彼の方に顔を向ける。
するとこちらを向いていた彼と視線がぶつかった。くりっとした大きな瞳が私を捕える。
『下手に気を遣われたり、特別扱いはいりませんから。言われた通り、分からないことは素直に尋ねます。だから、これからもご指導よろしくお願いします』
優しい表情で、やっぱり丁寧に頭を下げる彼に私はそれ以上、なにも言えなかった。どうやら私は彼を見くびっていたらしい。
見掛け倒しなんてとんでもない。思った以上に彼は謙虚でできた人間だ。
『あの、早速ひとつ尋ねてもいいですか?』
『どうぞ』
改めて訊いてくる彼に、私は促すよう軽く答える。そして続けられた彼の質問は少し意外なものだった。
『御手洗さんの初めてのお客さまってどんな方でした?』
どうしてそんなことを訊くのか、とも思ったが純粋に参考にしたいのだろう。信号が変わって再び前に顔を向けながら私は記憶を辿る。
『先輩に紹介してもらったお得意さま、だったかな。ずっとうちの車一筋でいらっしゃる方で、その方が乗り換えのために新車を購入するのを担当したのが初めてだよ』
『そう、ですか』
わざわざ訊いてきたわりに、彼の反応はどこか鈍かった。なので、つい訊かずにいた質問を口にする。
『どうしてそんなことを訊くの?』
『訊いてみたかったんです』
なんとも答えになっていないものを返され、私はどう受け止めていいのか分からなかった。おそらく深い意味はなかったのだろう。
これ以上は触れる話でもないと思い、そこで会話は終了した。
車内は再び沈黙が訪れる。けれど、その中で私は彼の認識を少しだけ変えた。あくまでも職場の同僚として、直接指導にあたる後輩として、だ。そこにプライベートな感情なんて一切ない。
本田にからかわれたり、彼に好意を寄せる女子たちにあれこれ言われたりもしたが、私はそのとき職場は別だが、付き合っている彼氏がいたし。