05
「ご馳走さまでした」
律儀に手を合わせた彼が食器を片付けはじめる。最近になって気づいた。彼はいつも私が食べ終わるタイミングを見計らって、そう声をかけてくれる。
仕事しているときは、どうしたってゆっくりと食事をする時間なんてない。 空腹を訴える胃をなだめるために、掻き込むように食べ物を摂取する。
その反動でか、私はプライベートでは、わりと丁寧に食べるように心がけていた。
「流し台に置いといてくれたら洗い物はしておくから」
おもむろに立ち上がり食器を運ぶ彼にとっさに告げると、足は台所に向かいながらも、こちらを見て彼は軽く笑った。
「ありがとうございます。じゃぁ、お言葉に甘えますね。先にフライパンは洗っておきましたから」
「……ありがとう」
台所に消えていく彼の背中にぽつりと呟く。聞こえるか聞こえないか微妙なボリュームだったが、彼はひょっこりと顔を出した。そして、やっぱりいつもの笑顔を向けてくる。
「どういたしまして」
それだけ返すと、こちらの反応を待たずに顔を引っ込めた。彼はどんな些細なことでも必ずお礼を言う。職場の先輩だからなのか、とも思ったりもしたけれど、どうやらこれは彼の性格らしい。
こちらのすることひとつひとつを喜んで、お礼をきちんと伝えてくれる。なんだかくすぐったい。今まで付き合った彼氏にさえ、こんなまめに感謝されたりしなかった。
彼と付き合える女性は幸せなんだろうな、と純粋に思う。
残りの食器を持って彼と入れ違いに台所に入り、いつものスポンジに少し多めの洗剤をつけた。フライパンは場所をとるし、油汚れもあるので、先に洗ってもらえていると非常に助かる。
なにも言わなくても、テーブルの上を拭いた彼から布巾を受け取り、今度こそ好きにくつろぐように告げた。思えば彼はうちに来てから働き詰めだ。
テレビがついた音がして少しだけ安堵した。
彼は職場の先輩でもある私とプライベートまでこうして一緒に過ごして、しんどくないのかな。私が彼の立場なら絶対に嫌だ。
どう考えても私たちには、恋人という甘い雰囲気はない。彼にスキンシップ過多なところがあっても、元々外国育ちなわけだし。
こんなことになった相手が私で本当に申し訳ないとは思うけれど、過去は変えられない。
プライベートでは、彼は私を名前で呼び、歩み寄ろうとしてくれているのが伝わるのに、私は彼に対して、いまだにどう接していいのか分からないでいた。
洗い物が終わって、紅茶を入れる。ひとりなら、こんな真似をしないけれど、彼が来ると定番になっていた。リビングに戻ると、彼が真剣な眼差しでテレビに釘づけになっている。
映し出されていたのは今流行りのお笑いコンビがコントを繰り広げているところだった。あまりにも彼の表情と見ている内容がちぐはぐな気がする。
軽快な喋りにスタジオがどっと沸いているのにも関わらず、彼はなんだか難しい表情だった。珍しい。彼が目の前の観客なら、やりづらいだろうな、と思うほどだ。
そんな顔をするくらいなら見なければいいのに。さらに私が近寄ったところで、こちらに気づいた彼が上を向いて視線を寄越す。
彼は今、食事のときに私が座っていた脚なしのローソファに座っている。
食事中はテレビをつけていなかったので向かい合わせに座ってもおかしくなかったけれど、今はテレビがついているので、彼の正面に座るとテレビに背を向ける形になり不自然だ。
とはいえ、隣に座るのもどうなんだろう……。
突っ立ったまま自分の座る場所を悩んでいると、彼がなんでもないかのように少し隣に移動してスペースを空けた。
私は目を丸くする。
「市子さん?」
不思議そうに名前を呼ばれ、慌てて我に返り私はとりあえず机の上にカップを置く。そしてぎこちなくも、わずかな動揺を悟られないよう彼の隣にそっと腰を下ろした。
密着しているわけでもないし、仕事でもう少し近くに寄ることだってあるのに、ここが自宅だからか、なんだか落ち着かない。
「どうしたの? そんな怖い顔をして」
自分の落ち着かない気持ちを振り払いたくて、わざと声をかける。彼は再び厳しい顔でテレビに視線を送っていた。
「あの、ひとつ尋ねてもいいですか?」
「なに?」
あのときと同じような質問に、平静を装って訊き返す。ややあって彼の形のいい唇が動いた。。
「“ふに落ちる”の“ふ”ってどこですか?」
……ん?
あまりにも想定外すぎる彼の質問内容に私は一瞬、思考が停止した。しかし彼は気にせず真剣な顔で続ける。
「さっき。テレビでこれで全部“ふに落ちた”な』って言ってたんです。でも意味が分からなくて。芸人さんの出身の大阪府のことですか? それともふ、に落ちるんじゃなくて、ふに、落ちるんですか?」
しばらく呆然としてから私は俯いて肩を震わせた。笑ってはいけない。彼は本気なんだ。
けれど、独特のイントネーションで、ふに落ちるって。脳内で再生された彼の声に私は堪えきれず、とうとう吹き出した。
「市子さん! 俺は真面目に訊いてるんですよ!」
「ご、ごめっ」
むくれた彼の声が耳に届いたが、私は抑えられなかった。どうしよう、腹筋が痛い。完全にツボに入ってしまった。
涙が出そうになるのを我慢して顔を上げると、彼は怒ってはいないものの、どこか拗ねた顔でこちらを見ていた。
その顔をつい可愛いと思ってしまう。ああ、なるほど。こういう表情に夢中になるんだ。私は再度、謝罪の言葉を口にしてから、『腑に落ちる』の意味を手短に説明した。
「日本語って難しいですね」
「でも、あまり日常会話では使わないよ」
説明を受けてため息まじりに吐き出す彼に、私はフォローを入れる。彼はカップに口をつけて紅茶を飲みながらも、テレビにまた意識を戻した。
彼曰く、漫才などとくに芸人たちのやりとりは、早口だし言葉が砕けているのもあって、一番理解しにくいんだとか。
それなら無理して見なくてもいいのに、と思ったけれど、その考えは再びテレビを難しい顔で見つめている彼の表情で浅はかだったと気づく。
彼はわざわざ見ているんだ。少しでも多くの日本語を理解するために。
面白くもなく、笑うこともできないのに、こうして努力している。私はさっき笑ってしまったのを後悔しながら、彼と同じくテレビに意識を向ける。
普段、私もこういう番組はあまり見ない。でも、チャンネルを変えてほしいとも、消してほしいとも言わなかった。
テレビからは軽快なやり取りと、時折わざとらしい爆笑する声が聞こえる。私たちは無言だった。
「……二枚舌の意味は分かる?」
視線は前を向いたまま、テレビの中のやりとりで、ふと出てきた言葉を彼に投げかけてみた。
「分かりますよ。ドイツ語でも二枚舌は„Doppelzuengig、二枚の舌なんです。英語でも似た表現をしますから、どちらかと言えば日本語の二枚舌が外国語の由来なのかもしれませんね」
「そうなんだ」
聞き取れなかったが、彼の発音の良さにまずは驚いて、その内容にも純粋に感心した。そしてなんだか余計な発言をしたんじゃないかと居た堪れなさを感じる。
私よりもはるかに知っている内容を、あえて知っているのか?と尋ねるなんて。プライドを傷つけてしまったんじゃないかと不安になり、彼の顔を見られずにいると不意に頭に温もりを感じた。
急いで彼の方に視線を向ける。
「ありがとうございます、俺のことを気にしてくれたんですよね」
穏やかな表情に、頬が熱くなった。あの女子社員たちじゃないけど、この破壊力は半端ない。まさか、こんな返しをされるとは。
だからか、素直すぎる彼のおかげで私は抱えていたものを声に出すことができた。
「さっきは笑ってごめんね」
いつもならきっと言えない。自分でも自覚はしているけれど、私はどうも変にプライドが高くて意地っ張りなところがある。おまけに可愛げもない。
今まで付き合ってきた彼氏とも、それが原因で上手くいかなかったことが多かった。きっと恋人としての私は、男性が求めるような女の要素があまりないんだ。
そんな私が年下の、しかも職場の後輩でもある彼にはこうして素直になれるなんて。いや、だからなのかもしれない。