5.本当は会いたくなかった……とか?
橙我との思い出はどれも色褪せなくて、その場の景色も音も覚えている。
美化はされてはいくけれど、決して廃れてはいかないのだ。
それは未練にも似たものなのかと思ったけれど、そうじゃない。
似ているものじゃなくて、未練そのものだ。
橙我と再会して、よく分かった。
わかっていたけれど見ないふりしていたのに、会ったことで気持ちがぶり返してしまったのだ。
平常心……平常心。
私は何度も自分に言い聞かせる。
橙我は南さんに言われて嫌々私と会うのかもしれないのに、私だけ浮かれているのがバレたら居た堪れない。
……でも。
箱詰めしてエコバッグに入っている、かぼちゃのプリンに目を落とす。
以前のように恋人に戻りたいとはそんなおこがましいことは願わないけれど、叶うのならたまに連絡を取り合うような関係に戻れたらと思うのは、やはり図々しいだろうか。
もしかすると彼女がいるかもしれないし。
絶対に高望みはせず、でもまた橙我と気軽に話せるような仲に……。
「……そんなの、難しいか」
私はひとりごちて家を出た。
橙我のマンションは私の家の最寄りの駅から電車で五駅。
昨日南さんと来たときはタクシーだったので、距離感がよくわからなかったけれど案外近い。
こんなに近くに住んでいたのに、二年間会わないときは会わないもんだなぁと感慨深くなりながらマンションのエントランスに入ろうとした。
ところが、エントランス前に並ぶ花壇に腰をかけている人がいる。
「……橙我?」
私が声をかけると、彼はバッと勢いよく顔を上げてこちらを見やる。
あまりにもそれが勢いが良かったので、私もビビってしまいビクリと肩を震わせた。
今日は眼鏡をかけて、昨日よりは小綺麗な格好をしている橙我。
髭も剃って、ダボっとした部屋着ではなくキチッとしたよそ行きの服を着ている。
カーキ色のシャツに、黒のパンツ。
今は黒くなった髪はツーブロックで、毛先を遊ばせている。
昨日は一瞬で部屋に篭ってしまったのでよくよく見られなかったが、橙我は年を経た分大人の色気が増していた。
これ以上格好良くなってしまってどうするんだろう。
そんなことを真面目に考えてしまっている私は、いよいよまずいかもしれない。
顔を見ただけでこんなにもドキドキしてしまっている。
「どうしたの?」
私が立ち上がった彼に近づくと、橙我はそっと目を逸らしながら小さな声で言う。
「お前がそろそろくる頃かと思って」
「別に部屋で待っててくれてもよかったのに」
「……荷物とか、あると思ったし」
あぁ、なるほどと思って私は自分の手を見た。
駅前のスーパーで買った食材に、昨日のうちに家で作って持ってきたカボチャのプリン。
両手が塞がってしまっている。
橙我はそれを見越してここで待っていてくれたわけだ。
「本当は、駅まで迎えに行きたかったけど、すれ違いになると困るからな」
食材が入ったエコバックを橙我は私に手から取る。
「それに連絡先、知らないし」
またぽそりと呟くように言った言葉に、私は顔を見上げた。
気恥ずかしそうな気まずそうな、ちょっとむっつりとした顔。
きっと怒っているわけではない。
私もそうだけど、久しぶりすぎてどうしたらいいか分からないのだ。
久しぶり! と今まで会えなかった時を語るにはあまりにもよい別れではなかったし、そのときの思い出を語るにはまだ早い。
ソワソワして心もとない、そんな感じ。
「……前と変わってないよ、連絡先」
私がそう言うと、橙我は少し目を見開く。
「……そうか」
「うん」
「……俺も、変えてない」
「……分かった」
まるで付き合い初めにカップルのように、会話がぎこちない。
ぎこちないから場の空気を変えようとしているのか、橙我は少し足早にエントランスに入っていった。
ロックを解除して中に入ると、二人でエレベーターに乗る。
その間、ずっと無言だった。
私は、隣に並ぶ橙我の横顔をチラリと盗み見て、あぁ、やっぱりと隠れてため息をついた。
「今日、本当に私が来ても大丈夫だったの?」
遠慮がちに確認すると、橙我は視線だけこちらに向けてきた。
「昨日寝てないんじゃない? ……眼鏡、寝不足でコンタクトが入らないからかけてるでしょ?」
付き合っていたときもそうだ。
橙我は寝不足のときは目が痛くなるから眼鏡で過ごしていた。
目の下にもうっすらとクマが見えるし。
会ったときからそうじゃないかなって思っていたけど、近くで彼の顔を見て確信した。
私の指摘に、橙我は顔を逸らして見せないようにする。
今さら遅いんだけどね。
もうガッツリ見てしまったから。
でも、やっぱり寝不足のようだ。
「……もしかして、眠りが浅いとか?」
「いや、そうじゃない」
「夜更かし?」
「…………」
軽い気持ちで聞いたけれど、どうやら橙我はあまり話したくないみたいだ。
口籠り、言いにくそうに眉を顰めている。
深く追求するのはやめようかと口を閉ざすと、替わりに橙我が口を開いた。
「……昨日、朝まで曲作りしてた」
「え?!」
私が驚きの声を上げると、橙我は恥ずかしそうに口元を手で覆う。
昨日あれから曲作りをしていたなんて、正直驚きだった。
しかも朝までということは、そうとう没頭していたに違いない。
南さんから強く言われたから?
それとも私が来ることになって、早々に作らなければと気持ちが急いたのかな?
……何度も私に来られるのは困る、とか?
「結構できたの?」
「ある程度のメロディラインは」
「凄いじゃん!」
私が拍手をしながら喜ぶも、橙我はどこか嬉しそうじゃない。
それどころかそれが不服だとでも言いたげだ。
「こうなる前に、できればよかったんだけどな」
「仕方ないよ。前も橙我、言ってたでしょ? こういうのは気分とタイミングで、自分でもコントロールできないって」
だから、橙我の作曲は気まぐれだった。
突然天啓のように降りてきて二、三時間で一曲作り上げたり、全然思い浮かばなくて一ヶ月以上悩んだり。
自分ではどうしようもないのだと。
本当なら、安定して曲を作れればいいんだろうけれど、それが果たしてクオリティの高いものかと言われればそうでもない。
一度、橙我が無理矢理作った曲を聞かせてもらったときは、いい作品とはとても言い難かった。
「……そうなんだけど」
そう重い溜息と共に言った彼は、私をちらりと見る。
その視線の意味が分からず首を傾げた。
でも、もしかしてと、ずっと心の中で不安だったことを堪らず口にしてしまった。
「――私と再会するようなことになる前に、どうにかしたかった?」
自分で言っていて傷つくと分かっていながらも、橙我のどこか煮え切らない態度に不安になってしまうのだ。
話せば話すほど、橙我が歓迎してくれていないんじゃないか、本当は今すぐにも帰ってほしいと思っているんじゃないかと疑ってしまう。
エレベーターが目的階まで着いて、扉が開く。
そこを潜り抜ける前に、橙我が聞こえるか聞こえないかの声で言ってきた。
「……できれば、そうしたかった」
耳に届いたその言葉に、傷付き打ちひしがれる私がいた。