4.出会いは高校のときだった
私と橙我の出会いは、高校の時だった。
中学を卒業し、仲のいい友達と離れてしまった私は、なかなか友達ができなくて苦労していた。
引っ込み思案で自分から声をかけるのが苦手。
今では随分とマシになって社交的になったものの、それでも昔から押しに弱いのは変わりはなかった。
普段は話しかけてこない人たちが、都合の良いときに頼みごとをしてくる。
強く言われたら断れない私は、その日も現国の課題をクラスから集めて先生に持っていく役を引き受けてしまった。
塾があるから早く帰らなきゃと言われれば、仕方がない。
……まぁ、あとで友だちと合コンに行くための嘘だって知ったんだけど。
クラスメイト40人分のノートを持って廊下をヨロヨロと歩く。
結構ノートが重くて大変で、職員室も遠くて足取りも重かった。
腕が痛いし疲れたし。
もう、何で私がこんなことを……と心の中で嘆いていたときだった。
「わっ」
「……あっ、悪い」
廊下の角を曲がるとき、出会い頭に人とぶつかってしまったのだ。
その拍子に、手に持っていた課題を見事に落としてしまった私は、とことんついてないと泣きそうになる。
「……す、すみません」
廊下に散らばってしまったノートを拾い集めながら謝ると、横から手が伸びてきた。
「こっちこそ悪い。大丈夫か?」
ぶつかった人がノートを拾ってくれて、私に渡してくる。
ありがたいとお礼を言おうと顔を上げたとき、驚きのあまりに言葉を失ってしまった。
めちゃくちゃイケメンだった。
もうそばに居ること自体、恐れ多くなってしまうようなイケメン。
綺麗に染められたキャラメルブラウンの髪の毛に、着崩した制服。
それだけでもリア充って感じが溢れてて、地味系教室の隅でぼっち系の私には恐れ多いのに、加えてイケメンときた。
気怠げな感じの雰囲気だし、声も少しやる気のないように聞こえるけど逆にそれが色気を出してしまっている。
『今から学校サボって俺とイケナイことでもする?』
っていうセリフが似合う色気がだだ漏れな人。
こんな人が私の目の前に現れてもいいのだろうかと、ドキドキしてしまう。
「あ、あ、ありがとうございます」
声が上擦って、顔が真っ赤になってしまう。
自分の手の上に、彼がノートを乗せていくたびに私の心が高鳴る。
ところが、私の手の上に乗せられたノートは半分で、残りの半分は彼の手の上に乗ったままだ。
「重いだろ? 半分持ってやるよ。ぶつかったお詫び」
「で、でも……」
「職員室でいいの?」
「……は、はい」
彼は私の戸惑い尻目に勝手に職員室に向かって歩き出した。
私はしばらく戸惑って動けなかったけれど、彼が振り返って「いかないのか?」と目で言ってくるので慌てて後をついていく。
「何て読むの?」
「え?」
「名前。『しこ』じゃないよな?」
私の名札を見て、彼は頭を捻る。
たしかにこの名前を一発で読める人は半々ってところだ。
「『うたこ』です」
「うたこ……いい名前だな」
彼は柔らかく笑う。
それが本当に綺麗で思わず見惚れてしまった。
「あ、俺、末續橙我。三年」
……末續先輩、と私は忘れないように何度も心の中で反芻した。
もう二度と関わらないだろうけれど、このまま出会いと名前を忘れてしまうには惜しい。
そう思っていたけれど、橙我と碌に会話もできずに職員室に課題を届けてもらったあとにあっけなく別れてしまった。
別れ際にもう一度お礼を言ったけど、橙我は軽くこっちに手を振って去っていく。
私なんかがこれ以上の繋がりを持てるわけないよね。
と、少しがっかりしながら私も帰った。
ついてないと思ったけど、今日はそうでもなかったなと気分を良くして。
次の日知ったんだけど、橙我はやはり学校では有名人だったようだ。
もちろん学校で一、二位を争うイケメンとして、女子人気が凄いそうだ。
友達のいない私にはそんな情報が入ってくるはずもなく、興味もなかった。
ただ、今回は私に優しくしてくれたイケメンのことを知りたいとアンテナを張っていたせいで、彼の噂がよく耳に入ってきたのだ。
やはり、橙我は私とは世界が違う人だ。
昨日は私に起きた奇跡だったんだなと思うことにした。
ところが、奇跡はさらに続いた。
また橙我に会ったのは、一週間後のことだ。
その日も日直だからと、担任から資料室から教材を取ってきてほしいと用事を申しつけられた放課後だった。
資料室は教室が並ぶ棟とは別で少し離れている。
特別教室が並んでいるから、ここにいるのは文化部の部活に来ている人たちくらいなもので閑散としていた。
誰もいない廊下をとぼとぼと歩いていうると、ふと空き教室に橙我がいるのが見えて足を止めた。
彼は窓際に椅子を置いて座り、外の何かを眺めていた。
声をかけようか迷った。
本当は声をかけたかったけれど、一度会っただけ、少し話しただけの私が突然声をかけたらウザいかもと思ったら声が出なかった。
それに、ずっと橙我は何かに集中するように外を見ているから、邪魔をしてはいけないのかもしれない。
私はそっとその場を離れようとした。
けれども、足を動かしたとき、内ばきのゴムの部分が廊下の床に擦れて「キュッ」という音が出てしまう。
「詩子?」
おかげで橙我に気づかれ、名前を呼ばれた。
さすがにそれを無視するわけにもいかず、私はそちらに顔を向けてペコリと頭を下げた。
「どうした? 部活?」
「いえ、担任に資料室から教材を持ってくるように頼まれて」
「またパシられてんのかよ。何? クラス委員か何か?」
「そうじゃないんですけど……」
何故かよく頼まれごとをしてしまうのだと言うと、橙我は笑った。
「また手伝ってやろうか?」
「いえ、今回は軽いので」
また橙我の手を借りるのは恐れ多いと断った。
「……末續先輩は、ここで何を?」
少し勇気を出してみた。
せっかく話しかけてもらったのに、これで終わらせるのはもったいない。
ちょっとドキドキしたけど。
すると、橙我は手招きしてきた。
こっちに来いってことかな? と、私は遠慮がちにそっと近づく。
橙我の隣にやってきて、私は窓に外をキョロキョロと見渡した。
「……ピアノ、ここからよく聞こえるんだ」
ピアノ、と言われて、そう言えばずっと聴こえていたなと思い出す。
音楽室が斜め下に見えて、窓から誰かがピアノを弾いているのが見える。
彼はピアノを聴きにきたのか、それとも今ピアノを弾いている人を見にきたのだろうか。
気になって、私はつい聞いてしまった。
「ピアノ、好きなんですか?」
そうであったらいいなという方をとうかたちで。
すると、橙我はこちらをちらりと見て「まぁね」と小さく答える。
「もっと近くで聞けばいいのに」
「そうしたら誰かに見つかっちゃうだろ?」
まるでそれが悪いことみたいだ。
私はそれが腑に落ちなくて、さらに問う。
「見つかったら何かまずいんですか?」
それには、彼は苦笑した。
少し寂しそうな顔を隠すように俯く。
「……ガラじゃないっつーの? ピアノ好きとか、そういう奴、友達とかにいないし。誰かに見つかって俺がピアノ弾いてるって噂されても困るし。イメージとか? そういうの違うって言われそうじゃん? そういうの面倒くさいなぁって」
「先輩、ピアノ弾くんですか?」
「小さい頃から習ってた。最近は全然だけけど」
意外。
やっぱり橙我が言うように、イメージと違うかもしれない。
でもそれは私にとってがいいギャップで、決して恥じるようなことではないと思うんだけど、橙我には違うようだった。
「中学までは真面目にレッスンとかも行って頑張ってたんだけど、高校に行ったら、友達も変わって遊ぶようになったらさ、ピアノ弾く暇もなくなって、そのうちピアノなんてダセェなって思うようになった。ダチにも俺の趣味がピアノって言ったら笑われそうで言えなくて、みんなに合わせて流行りの曲聴いて、カラオケ行って、服買いに駅前行ったりして。でも不意にピアノが恋しくなって、こうやって聴きにきてる」
「家ではもう弾かないんですか?」
「何か、今まで遠のいていた分、変にのめり込みそうじゃん? 反動って言うの?」
「それって相当ピアノが好きですよね?」
「そーかも」
橙我は笑った。
笑ったけど、やっぱりどこか寂しそうで影が落ちる。
顔がいいから余計にそれが様になってしまうから、場違いにもときめいてしまう。
「本当はピアノ、弾きたいんじゃないですか?」
「やっぱ詩子もそう思う? 俺もそうなのかなーって思いながらここに来てる」
「でも一歩踏み出せない感じですか?」
「俺って一度のめり込むと周りが見えなくなるんだよ。ダチとの付き合いも悪くなるし、それでつまんねぇやつって思われたら、それもやだなって。まぁ、俺のわがまま?」
あぁ、何となくわかるような気がする。
私も友達といるとき、こういう趣味持ってるって知られたら引かれるかな? とか。
皆と違う考え持ったら、あいつ気が合わないよねってなったりしないかなって、不安になるときある。
相手の顔色伺って、これは大丈夫、これはダメみたいって試しながら突き進む感じ。
高校に入ってからそういうの面倒くさくて、極力関わらなくなってしまった。
戦う気力がないって言うのかな?
いちいちドギマギして不安になるくらいなら、流されるように生きて、教室の隅っこで大人しくしている。
頼まれごとをされたら断りなんかしない。
だって、下手に断って目をつけられたら困るもん。
でも、橙我はちゃんとそういうのと向き合おうとしている。
向き合っているから悩んで、迷って、ここでこうしてるんだ。
多分、友達ともピアノとも誠実に向き合いたいから、どっちとも取れないんだろうな。
案外、見た目に反して不器用な人なのかもしれない。
「他人と自分の切り離しって難しいですよね。合わせないと一人になってしまうっていう心配もあるけど、一方で自分は自分でいたいっていうジレンマ、結構キツイというか、悩みというか」
「詩子も悩める人?」
「そうですねぇ。でも私、悩む前に諦めてしまったので……」
真剣に悩んでいるっぽい橙我に言うには恥ずかしかったけれど。
でも縋るような目を見たら、本当のことを言わざるを得なかった。
「諦めた?」
「はい。何かいろいろ悩んで振り回されるの面倒くさくなって、学校で友達作ったりとかそういうの諦めたんです。中学にときの友達がいるからいいかなって。だから、いろんな人に用事押し付けられても、断るの面倒だからやっているだけで。先輩が悩むってことは、いろんなものを失わないように頑張っているんだなって思って」
「ただはっきりしない奴なだけだろ」
「私には自己分析できてるからこそ、悩める人に見えましたが?」
そこまで卑下することじゃないかなって思う。
悩むのは悪いことじゃない……はず。
ときにはとことん悩むことだって必要だ。
「諦めるって簡単なんです。多分諦めない方が苦しい。面倒くさがってすぐ諦めちゃう私が言っても説得力ないんですけど、でも、こころのどこかで、そんな先輩が羨ましいって気持ちがあるのかも……」
そう自分で言って気が付いた。
本当は諦めたくなかったのかもしれない。
でも、私は臆病で、面倒くさくて。
自分の中の不安と戦うことを放棄したのだ。
懸命に何かを得ようとしている橙我を目の前にしていると、自分が惨めに思えてくる。
悩んでいても、それでも彼は眩しい。
眩いほどに輝いている。
それにくらべて私は……と卑屈になってしまうのだ。
「……それじゃあ、先輩。私はこれで」
このまま話をしていると、自分の醜い部分がさらに引きずり出されそうで逃げるようにその場から離れようとした。
「詩子」
けれども、そんな私を呼び止めて、スマホ片手に橙我は言うのだ。
「俺と友達にならない?」
ニヤリと笑って。
「……私と友達になっても、先輩に得することは何ひとつないと思うんですけど」
「得とか得じゃないとかそういう話じゃなくて、俺が詩子と話したいの。それに、詩子の学校で唯一の友達になりたいなーって」
「……私がぼっちなこと、憐れんでます?」
「俺、今他人を憐れむほど余裕はないなぁ。ただ、詩子とまた会いたいから友達になりたいって理由じゃダメ?」
また会いたい、か。
そんなこと言ってもらえたの、久しぶりな気がする。
しかも男の先輩からなんて、初めてのことでドキドキしてしまう。
でも、本当のところを言えば、私も橙我とまた会いたかった。
会って、友達とピアノ、どっちを取るかって話を聞きたいと思っていたのだ。
好奇心の部分も大きいけど、でももしも彼がずっと人知れず悩んでいて、ようやく打ち明けた相手がたまたま私だったというのであれば、最後まで見届けたい。
教室から出ようとしていた足を翻し、私もスマホをポケットから取り出す。
「パシリは嫌ですよ?」
「するわけないって」
嬉しそうに笑う橙我を見て、私も嬉しくなった。
スマホで連絡先を交換して、またねと手を振って。
私は資料室に、橙我はそのまままたピアノを聞くためのその場に。
その日から私と橙我は「友達」になった。
そして、その関係が変わったのは橙我が卒業する直前のことだった。
あれから、橙我はやはりピアノを弾きたいという気持ちを止められなかったらしく、一番仲のいい友達に打ち明けたようだ。
「俺がピアノ弾くって言ったら、ダサいってドン引きする?」
と。
笑い飛ばされたと言っていた。
ダサいわけないじゃん! と。
「全然知らない世界だし、ただすげぇなって思うけど、ドン引きとかはないなって言われてさ。趣味は趣味でいいんじゃね? って言ってくれたよ」
憑き物が落ちたような顔で、橙我はそう話してくれた。
それから今までの時間を取り戻すようにピアノにのめり込み、学校でも弾くようになった。
私はそれを聞きに行ったりしてたけど、徐々に他の生徒も橙我目当てに集まるようになってしまったので、彼が隠れてピアノを聞いていた場所に私も座るようなる。
特等席みたいだなって思いながら。
ときどき、ピアノに夢中になり過ぎて、友達との付き合いが悪くなって怒られたって落ち込んだり、進路は作曲の仕事をしたいけど、現実的じゃないと親に言われて大学に進学すると話してくれたりした。
でも、夢は諦められないから大学に通いながら叶えるんだと。
「あのとき、詩子が俺の悩みを聞いてくれたおかげ」
橙我はよくそう言ってくれたけど、私の方が感謝したいくらいだ。
彼に会ってから、学校に来るのが楽しかった。
私も悩みを相談したし、クラスのカースト上位との付き合い方も教えてくれた。
相変わらず押しに弱いけれど、少しだけ躱しやすくなった気がする。
自分をもっといい方向に変えてみる努力をしてもいいんじゃなかと、橙我と一緒にいると思えてくるのだ。
彼は見た目は軽そうに見えるけど、本当は繊細で真面目。
向上心が強くて、でも不器用で。
そんな橙我がいつの間にか好きになっていた。
「卒業してからも、詩子と会いたい」
そう言ってくれたときは嬉しかった。
私も頷いた。
「でも、友達ってだけじゃ満足できないんだ」
橙我の顔が赤く染まって、それでも格好良くて。
私も顔を赤らめながら見蕩れていたのを覚えている。
「俺の彼女にならない?」
友達にならないかと言ってくれたあの日みたいに、私に聞いてきた。
でも、その言葉はもっと重くて、もっと嬉しいもので。
泣きそうになりながら頷いたのだ。
二人の隠れ場所で隠れるように二人で向き合って。
遠くでピアノの音が聞こえてきて、橙我の方が上手だなって思うながら。
――私たちはキスをした。