3.橙我と私、……と、南さん
「ここからそんなに遠くないんです、トワのマンション」
暗に、だからこれからも通えるな? と言われているような気がした。
いや、ごめんだけど。
たしかに南さんが言うように、トワのマンションは私の会社からそんなに遠くはなかった。
乗り換え駅で商業施設が立ち並ぶエリア、つまりはお高そうな場所に建っているマンション。
そこが、今トワが住んでいる場所のようだ。
私と付き合っていたときは、郊外の駅から徒歩20分のところにあった1DKのアパートだったのに。
本当に売れちゃったんだな、橙我。
25歳にしてここまで財を成すなんて、すごいとしか言いようがない。
もう離れていたとはいえ、さらに貧富の差を感じて距離感を覚えてしまった私は、さらに及び腰になる。
こんな高級マンションに住んでいる人が、本当に私のことを必要としているのか怪しいものだ。
そうは言いつつも、一度は承諾してしまった身。
今さら無理ですと言うのは、さすがに南さん相手でも卑怯だろう。
重い足を引きずりながら、私は南さんについて行き、マンションのエントランスまで入って行った。
その先はオートロックで、住人の許可がなければ入れないようになっていた。
南さんが部屋番号を押して、トワを呼び出す。
それと同時にスマホで電話をかけ始めた。
何度押してもトワは出ず、電話にも出ない。
そのうち電話は諦めて、メッセージを送ることにしたようだ。
しかもかなりの量のメッセージを。
「……あ、あの、もしかして留守なんじゃ?」
「いいえ、あいつはいます。ここ最近引きこもって家から全く出ていないので、絶対にいます。ただ無視しているだけです」
そう涼やかな顔で言う南さんこめかみは、ヒクヒクと引き攣っていた。
それに密かな苛立ちのようなものが見えた私は、心の中で早く橙我に出て〜! と祈っていた。
すると、南さんのスマホが震えて、彼は画面を見つめてニヤリとする。
そして、また部屋番号を押して、トワを呼び出したのだ。
果たしてオートロックは開かれた。
私は、南さんがどうやって彼を説得したのかを気にしながら、エレベーターに乗り込んだ。
1207室。
12階のその部屋の前までやって来ると、南さんはインターホンを鳴らした。
また無視されるのかと思いきや、驚いたことに玄関の扉はすぐに開く。
「こんばんは、トワ。曲の進捗はどうだい?」
「……ぜんぜん」
聞こえてきたのは、懐かしい声。
ちょっと気怠げな、うんざりしたような声だった。
声を聞いただけで分かる。
橙我は不機嫌だ。
こういうとき、口数が少なくなって、声のトーンも下がる。
本当だったら不機嫌な彼とは会いたくないっておもってしまうところだけどえ、それ以上に私は久し振りに彼に会えたことに感動していた。
二年ぶりの橙我だ、と思うと、感情がいやでも溢れてきてしまう。
正直、泣きそうだった。
鼻の頭がツンとする。
「どうしても会わせたい人って?」
そう橙我が南さんに聞いてきたのを聞いて、なるほどそういう手を使ったのかと合点がいった。
扉の影になってお互いの姿が見えないが、きっと彼は私がその人だとは分かっていないのだろう。
いや、分かってたらオートロックを解除しなかったのかもしれない。
大丈夫かな?
ここで私が顔を出して。
橙我に嫌な顔をされないか、本人を目の前にしたら弱気になってしまう。
今日だけだとは分かりつつ、やっぱりどこかで橙我の反応を気にしている自分がいた。
「強力な助っ人だよ〜。きっとこれでトワもやる気に満ち溢れること間違いなし」
「また家政婦? 女?」
「ちょ〜っと違うかなぁ。でも絶対に元気になる!」
やめて!
やめてください、南さん!
そんなハードル上げないで!
出て行きにくくなるから!
もう今にもここから立ち去りたい気持ちで、いっぱいになってしまうから!
私は居た堪れなさでここから逃げ出したかった。
もういっそのこと会わずに去ってしまおうかと思い始めたとき、南さんは無情にも私に腕を引っ張る。
「見て見て〜。トワの元カノの乾詩子さん」
ばっちり間抜けな顔をしている私を晒したのだ。
面倒臭そうに顔を歪めている橙我の前に。
私を認めた瞬間、彼の目は大きく開かれる。
そして、目の前で思いっきり玄関扉を閉められた。
「…………え?」
今、何が起こったの?
訳が分からないまま、私は廊下に響く扉が閉められた残響を聞いていた。
え。
もしかして、私、橙我に一瞬で閉め出された?
あれ?
会うの拒絶された?
あれ?
もしかして、もしかしなくとも……私、橙我に嫌われている?
思った以上の拒絶反応に私はショックを受けた。
いや、たしかに会うの二年ぶりですし?
振ったの私ですし?
気まずいかもしれないし、もう嫌われているかもしれないけど、何も一言もなしに扉を閉めなくても……。
私は涙目になりながら南さんに視線を向けた。
彼は仏のような顔をして、インターホンを無言で連打する。
もういっそのこと笑ってくれと思ったところで、インターホンから橙我の声が聞こえてきた。
『……何でここに詩子がいるの』
怒っているのか戸惑っているのか、顔が見えないので判別はつかない。
けど、元々低い声がさらに低くなっていることを鑑みると、半々といったところだろうか。
とりえず、完全無視ではないことに安堵した。
「僕がお願いしてここまで来てもらったんだよ〜」
『……詩子の居場所なんで知ってる』
「そりゃあ、今は情報社会ですから? 調べようと思えばどうとでも」
『だからって何で連れてきたりするんだ』
「君が捗るようにと、僕なりの便宜だよ。昔と同じ環境になれば少しは気持ちも変わるかなぁって」
南さんの言葉に、チッと橙我が舌打ちで返す。
ん〜……結構橙我、作曲に関しては干渉されるの嫌がるからなぁ。
できれば気分が乗るまでそっとしておいてほしいというのが本音なんだろうけれど、会社側もそう悠長に待っていられない事情も理解しているのだろう。
それがさらに彼を追い詰めているのかもしれない。
『……別に、詩子がいなくても曲作れる』
「そういうのは、一曲でも作ってから言ってみやがれ」
南さんの言葉遣いが崩れた。
こめかみがピクピクと震えてもいらっしゃる。
彼の怒りを感じたのか、橙我は黙り込んだ。
やはり今も全然作れていないらしい。
「いいから、このドアを開けなさい」
『嫌だ』
「せっかく乾さんに来てもらったのに?」
『無理』
「トワ〜いい子だから開けなさい」
『無理なものは無理!』
怒っても宥めてどうしてもドアを開けないので、とうとう南さんは諦めた。
「分かりました」
そう殊勝な態度で理解を示し始めたのだ。
ということは、私はこれでお役御免だろうか。
結局何も力になれずに終わってしまった。
まぁ、久しぶりに橙我の顔が見れたからいいけど。
前よりカッコよさが増してたなぁ。
ヨレヨレの格好ではあったけれど、顎の周りに生えた髭とか、少しボサボサの頭とか、気怠さが相待ってとてもよかった。
元カレに言うのもなんだけど眼福だったな。
「では、乾さんが明日ご飯を作りに来ますから、そのときはちゃんと出てくださいよ!」
「はぁ?!」
『なに?!』
ちょっと待って南さん!
そういう話ではなかったはず!
一度会うだけのはずでは?!
『み、南、何言ってっ』
「そうですよ! 今日一度だけ会うって話じゃ……」
橙我も私も南さんのありえない話に食らいつくと、彼は大きなため息を吐いた。
「でもね、乾さん、さすがたったあれだけでは、会ったことにならなんじゃないですかねぇ」
たしかに顔を見られた瞬間に、扉を閉められてしまいましたけど。
でも、あれは私というより、橙我が悪いんじゃ……。
「僕がお願いしたのは、説得とお世話です。話もしていない状態では、依頼は未達成だと思いますが……違いますか?」
「うっ……たしかに……」
そう言われてしまうと納得せざるをえないような、でもどっか暴論のようなと首を傾げた。
すると彼は私の方に近づいてきて、橙我に聞こえないよう声を潜めて耳打ちしてきた。
「あんな態度ではありますが、貴女に会えてトワは喜んでいますよ。ただ、今は動揺しているんです。だから、一晩時間を置いて、改めて気持ちが落ち着いた頃に会ってください」
「明日、南さんも来るんですよね?」
「来ませんよ。僕、こう見えても忙しいですし、お二人の邪魔はしたくないので」
「えぇ……」
明日私一人でここに来るのかと思うと、承諾しづらい。
私一人で橙我と何を話したらいいのか。
「そんなに心配しなくても大丈夫です。ただ貴女は昔のようにトワと接してくれればいいんです。変に気負う必要はありません」
「本当に大丈夫ですかね……」
「ええ! 別に曲を作れと強制する必要もないですし。あ! もしも乾さんが強制した方が捗るのであれば、それはそれで全然してもらっていいですど。でも、まずはトワに昔の感覚を取り戻してもらうのが目的なので。そうなると、逆に僕がいない方がいいでしょう?」
南さんの根拠のない期待が重い。
私が橙我の力になれることなんてほとんどないと思うけどなぁ。
付き合っていたときも、私が曲作りを手伝っていたなんてことは一切なく、彼が一人で作り上げていた。
その世界に、私は必要なかったような気がする。
「材料費、交通費別途でちゃんと手当もつけますから。ちゃんと領収書も取っておいてくださいね。だから、この通り、お願いしますよ」
両手を合わせて必死に頼み込んでくる南さんに、私はまたNOと言えなかった。
引くに引けない事情も分かるので、力になれるにであればなりたいと思う。
……けど。
私はインターホンの方に目を向けた。
『……南、いい加減にしろ。詩子を巻き込むな』
やはり橙我は私が来ることを歓迎しなかった。
重苦しい声で、南さんを咎める。
ところが、それが南さんに火をつけたらしく、彼はこめかみをヒクヒクと震わせながらインターホンに食らいついた。
「だから、そういうことは、曲の一つでも作ってから言えって言ってんですよ。それができねぇからこっちがいろいろ手を尽くしてんだろうが」
声のトーンは至って穏やかなのだけれど、口調が崩れて顔が恐ろしいことになっている。
モニターからその様子を見ているであろう橙我も、何も言い返せずに黙っていた。
「他に案があれば聞きますが?」
『……特にない』
「なら、明日乾さんがここに来てもいいですね?」
『…………』
「トワぁ?」
ひぇ……また南さんの顔が般若になりかけている。
これ以上は私の心臓が保たないと判断して、私は二人の間に入った。
「と、橙我! とりあえず明日私来るから! ご飯作りに来るから!」
『……本当に来るつもりか?』
「うん。あの、迷惑かもしれないけど……」
『……迷惑なわけではないけど』
そこまで言って、橙我は黙りこくってしまった。
迷惑じゃないと言ってもらえたのは良かったけど、でもどこか渋る感じがあるのは確かだ。
それが何なのか私には分からないし、橙我も言うつもりはないのだろう。
「明日、11時頃来るから」
『うん』
「何か食べたいものある?」
念のためリクエストがあるか聞くと、しばらくしてから小さな声で『カボチャのプリン』と言ってきた。
それが好きなのは相変わらずのようだ。
昔もよく食べたいって強請られて、何度も作ったっけ。
「分かった。あと、唐揚げでいいかな?」
『うん』
「いつもの味付けでいい?」
『うん』
「分かった」
味の好みが変わっていないようで、嬉しくなってしまった。
橙我は唐揚げが好きで、しかもネギ塩ダレに漬け込んで揚げたものを美味しいと喜んで食べてくれていた。
私も作るのは久しぶりなので、少しワクワクする。
「じゃあ、明日ね」
『分かった』
「僕のときみたいに、明日乾さんを門前払いしたら怒りますよ〜」
『しねぇって』
南さんが横から顔を出して口を挟む。
それに橙我が即答したということは、明日はちゃんと顔を見て話せそうだ。
『……詩子』
「ん?」
『ごめん。迷惑かけて』
橙我のしおらしい言葉が聞こえてきて、ちょっと笑ってしまった。
私、橙我は変わってしまったのだと思っていた。
別れる直前、作った曲が採用されて、さらに売れ始めて、世界が広がって。
いろんな刺激を受けると、考えも変わるし人間関係も変わっていく。
そのなかで、私への愛情も薄れていったのだと思った。
昔の橙我とはもう違うんだと、別れを決意したのだけれど。
……でも、今私と話している橙我は付き合っていた頃のままだ。
「また明日ね、橙我」
そんなことを言う日が、もう一度くるちは思っていなかった。
だからだろうか、何だか泣きそうだ。
「明日、よろしくお願いしますね」
そう嬉しそうに言う南さんは、明日に材料費と交通費として私に一万円をくれた。
二つ併せてもこんな金額にならないにで、あとで領収書を渡すからそれで精算してくれと返す。
一応経理の人間として、お金関係はきっちりしていないのは嫌だ。
「期待してますね」
「やめてください。そんな期待されても、その期待に答えられる自信がないです」
「乾さんがなくても僕はありますよ」
過剰な期待な気がする。
ダメだったとき、『使えませんねぇ』とか言われないよね?
「ちなみに、このままヨリを戻しても、事務所的に全然OKなんで」
「へ?!」
家の前まで乗せてもらったタクシーを降りる直前、南さんはとんでもないことを言ってくる。
そんなのあり得ないです!
と、返そうとしたが、その前にタクシーの扉が閉まってしまった。
窓の向こうでにこやかに手を振っているその顔が、何だか憎らしい。
南さんを乗せたタクシーが立ち去り、私は大きく息を吐く。
とんでもない一日だった気がする……。
まさか、橙我に会えるとは。
人生何が起こるか分からないものだ。
……私、あの日、もう二度と会えないと思って別れを告げた。