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(9) ティコとケプラー

「はい。出汁巻き玉子」

 不意に声をかけられて我に返った。
 女将がカウンタ越しに差し出してくれた皿は、やや平行四辺形気味に歪んだ長方形だ。その中央に艶やかな薄黄色の塊が鎮座している。
 幾重にも層を成しているはずなのに何の抵抗もなく箸が通り、口の中で溶けて消えた。
 奥ゆかしい出汁の甘さ具合が、上品とはこういうことなのよと教えてくれているようだ。

「美味い」

 ここで出汁巻き玉子を食べるのは初めてだった。
 メニューには確かに出汁巻き玉子と載っているが、これまでは意識したことがなかった。
 卵料理は好きだけれど、出汁巻き玉子などは定番でありがちなメニューなので、無意識のうちにスルーしてしまっていたのだろう。

「それ、裏メニューだから、内緒ですよ」

 女将がそんなことを言って笑っている。
 いや、メニューにちゃんと載っているじゃないかと突っ込むと、内緒ですと意味ありげな笑みで煙に巻かれた。

 メニューに載っているのに裏メニューとは、どういうことだろう。
 そもそもこれを頼んだのは日坂だ。お任せと言いながら、わざわざ出汁巻き玉子だけを指定した。偶々(たまたま)それを耳にして、つい食べたくなって同じものを頼んでしまったのだ。裏メニューだという意味が、日坂には分かるのだろうか。
 ますます二人の関係が気になって、何も分からないまま、その何も分からないことに妬けてしまう。

 結局、そろそろ帰ろうかという時間になっても、日坂は姿を見せなかった。仕事の話が長引いているようだ。
 女将が気を利かせて日坂に声をかけようとしてくれたが、仕事の邪魔はしたくなかったので遠慮した。
 このビルで働いているのなら、また別の機会に会えるだろう。

 女将は外まで見送りに出てくれた。
 薄暗いビルの通路に、二人の足音が小さく響く。
 並んで歩きながら、我慢できなくなって気づいたことを打ち明けてしまった。

「女将って、秋庭真冬さんでしょう」

「あら」

 意外にも彼女は、とても素直に嬉しそうな笑顔を見せた。
 その眩しさのようなものに耐え切れなくて、目を逸らしてしまう。

「気づいてくれたんですね」

 例の彼女がね、とは言わなかった。

「それも内緒なんですか?」

「そういうわけじゃないけど、積極的には打ち明けないようにしているんです。でも、気づいてくれるのは大歓迎」

 女将はそう言うと、両手で拳銃の形を作って引き金を引いた。
 現役時代そのままの殺傷能力だった。
 またなと日坂への伝言を託して、ビルの前で女将と別れた。
 駅に向かう下り坂で、自然と早足になる歩調にブレーキをかけながら、ついついにやけてしまう顔を引き締めた。

 かぐや部長が中学に来なくなって数日後、田口と二人で部長の家を訪ねたときのことを思い出す。

 今にも倒れそうな昭和の匂いを(まと)った古いアパート。
 教えられた部屋に鍵はかかっていなかったけれど、誰もいない。何もない。
 もぬけの殻であることを確認できただけだった。

 二人で外から建物を見上げて途方に暮れていると、ちょうど二〇三号室の真下に当たる一階の部屋の扉が開いて、年配の女性が姿を見せた。
 買い物にでも行くのだろう。こちらを一瞥(いちべつ)しただけで黙って歩き始めた。

「あの」

 思わず声を掛けていた。
 このまま帰るのは寂しすぎる。
 女性は不審そうな表情を隠そうともしない。
 それでも立ち止まって、こちらを見た。

「二階の、二〇三に住んでいた人のこと、ご存じないですか?」

 女性は少し二階を見上げるようなそぶりを見せた。

「ああ。そういえばいなくなったわね。知らない間に引っ越したみたい」

「中学生の女の子がいたと思うんですけど」

「そうね。いたわ。かわいい子だった。何、同級生?」

「まあ、そうです」

「残念ね。夜逃げよ、きっと」

 残念ねと言いつつ、表情は緩んでいる。人の不幸や噂話が好物なのと打ち明けているような嫌な微笑み。

「夜逃げ?」

 テレビの中以外でそんなものがあるのを初めて聞いた。

「ごめんね。何も知らないのよ」

 歩き始めた女性の背中に問いかける。

「すみません。あとひとつだけ」

「なあに?」

「このアパート、ペット飼えたりします? 犬とか」

「犬?」

 女性はまた笑みを浮かべたが、先ほどとは違う。今度は自虐のような微笑みだった。

「このボロアパートで、そんなもの飼えるように見える? そもそもそんなものを飼う余裕のある人が住むところじゃないわよ」

 かぐや部長があそこに住んでいたことは間違いないようだった。
 しかし、ティコとケプラーはいなかった。
 帰り道、二人はずっと無言のままだった。 

 かぐや部長がいなくなって、天文部は部員数の要件を満たさなくなったはずなのに、何故か廃部の指示はなく、次の年も新入生を加えて、少なくとも卒業するまでは存続を果たした。
 部長は転校の手続きをしなかったために、書類上はずっと在籍していることになっていたのではないか。それが田口の推測だったが、正解かどうかは分からない。
 
 部長のことを思い出す機会は時間が経つに連れて減っていったけれど、しばらくの間、どういうわけか七夕の夜になると思い出すことがあった。
 二人の距離に関係なく一年に一度だけ会えるというのは、こういうことをいうのかな。
 一人で星空を見上げ、部長のことを思い浮かべながら、そんなふうに感じたことを思い出した。






第4話「ティコとケプラー」〈了〉

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