(8) 数千億の数千億倍
首を捻ると、部長を見上げる形になった。
その視線の先で、部長も空を見上げていた。控えめな胸の膨らみと首筋から顎にかけての滑らかな曲線が目に入って、また心臓が過剰に反応した。
「ありがとうね」
不意に礼を言われて戸惑った。
「星になんか興味ないんでしょ。田口君に頼まれちゃったのよね」
「いや。そんな」
部長は知っていたらしい。
後輩の自分だけが座っているのはまずいような気がして、立ち上がった。
身長は先輩も後輩もなく同じくらいだった。
部長は人差し指で鼻の頭を撫でた。
「でもごめんね。無理しなくていいよって言えない」
「大丈夫です。無理はしてませんし、これからもしません」
「そう? だったらいいけど」
天文部がなくなったとしても、星空を見るのは自由だ。それなりの機材さえあれば、大した影響はない。だから天文部なんてなくても困りはしない。でも、それでもやはり自分が愛した部がなくなるのは辛い。
部長はそのような趣旨の言葉を発し、最後にまた礼を言った。
「銀河系にはいくつくらい星があるんですかね?」
「数千億だね」
「宇宙にはいくつくらい銀河があるんでしょう?」
「それも数千億」
「それは覚えやすいですね」
数千億を数千億倍するといったい幾つになるんだろうか。
「アバウトな数字だなあって思ってる?」
返事に困った。
「確かにアバウトだけど、でも数百億でもなければ数兆でもないっていうことに意味があるんだよ」
部長は笑って、多分、と付け加えた。
「わたしは、UFOとかエリア51とかは信じない。でも、仮にこのわたしたちが住んでいる銀河系にある数千億の星の中で、生命が息づいている星が地球ただ一つだけだったとしても、まだ宇宙には数千億かける数千億の星があるのよ。わたしたちと同じように星空を見上げている生命がいる。遠い宇宙のどこかで別の生命が星空を見上げている星のことを思っている生命が、きっとどこかにいるはず。そんなふうに思うことって浪漫でもなんでもなくて、ごくごく自然なことに思えるんだけど、そうじゃない?」
生命の話がややこしくて頭が追いつかなかったけれど、言いたいことは伝わってきたので黙って頷いた。
「そんな宇宙の片隅でさ、こうやって並んで星空を見上げている二人だって、十分に奇跡みたいな確率かもしれないね」
今度は素直に肯定できなかったのは、自分と部長がそんな特別な二人だと認めることはおこがましい。そんな感情が瞬時に湧いたからだ。
「だからって、自分たちのことをちっぽけな存在だなんて思うのは嫌いなの。よくあるでしょ。映画やドラマで悲しみに打ちひしがれた登場人物たちが、自然の雄大さに比べれば自分たちなんてちっぽけな存在に過ぎないんだ、みたいな慰めを言うの。あれ、大嫌い」
「ありがちです」
「そりゃ確かに小さいかもしれないけどさ、そのスケール感って意味無くない?って思うわけよ。自分は自分でしかないんだし、いくら宇宙が広くっても悩みの大きさとは無関係。わたしの人生には何の影響もない」
「でも、自分の悩みなんて宇宙の中では屁みたいなもんだっていう、そんな慰めが必要なこともあるんじゃないでしょうか」
「分かったふうなこと言うのね。一年のくせに。でも、それが正しいことも確かにある。どんなに白々しい慰めの言葉でも、それが心に
傷口っていろいろ
偉そうなことを言ってはみたものの、部長が本当は何を言いたかったのか。中学に上がったばかりの尻の青い餓鬼には分かるはずもなかった。
部長はまた鼻を撫でながら、言葉は心の傷に滲みると言った。
言葉が心に傷を作ることもある。後悔が深い傷となることもある。心とはいかに弱いものか。
宇宙の広さ。
大自然の雄大さ。
部長が言ったように、人は時にそういったものとの相対的な評価に逃げることがある。それは自分より不幸な他人を見て自分の不幸を慰めることと、本質的には同じような気もする。そんなのは気休めでしかない。でも、気休めが必要なときだってある。
だから人は星空を見上げるのか。
かぐや部長の姿を見たのは、この新歓キャンプが最後だった。先輩たちの話によれば、誰にも何も言わず学校に来なくなったのだそうだ。
彼女は、名前を宮之原奈央といった。そして数年の時を経て、柴田奈央として目の前に現れた。
とはいえ、一緒に過ごしたのはごくわずかな時間に過ぎない。柴田奈央を見て、すぐにかぐや部長と結びつかなかったのは止むを得まい。記憶に残る印象とも随分と違って見えた。
中学ではうしろに束ねていた長い髪がショートになり、星を眺めるのが好きだという静の雰囲気がすっかり消えて、活発な動のイメージになっていた。
それでも間違いではない。
あれは宮之原奈央——かぐや部長だ。
だからといって、先輩、お久しぶりですなどと無邪気に再会を喜ぶことはできなかった。
彼女は誰にも何も言わずに姿を消した。どんな事情があったのか知る由もないが、明るい話ではないことくらいは想像がついた。彼女にとっては触れられたくない過去かもしれない。
彼女の方から何か言わない限りは、気づいていないふりをしよう。日坂にも何も言うまい。
正しいかどうか自信なんてなかったけれど、そう決めた。