(24)想いの沼底4
後に知ったことだが、春香はコンピュータ関係のスキルに長けていた。
派遣社員として潜入した彼女のおかげで、不正経理については告発に足る証拠がすぐに集まっていた。
——あんなにあっさりと社内のシステムの中から部長の不正の証拠を見つけ出すなんて、春香ちゃんもすごいけど、うちの会社のシステムもかなり脆弱なんじゃないかと心配になったよ。
各務は苦笑いしながらそんな感想を漏らしていたが、春香の方は別の意味の笑みを浮かべていた。
——そちらの会社のシステムのセキュリティは一般的なレベルを満たしていると思いますよ。わたしのスキルが高過ぎるだけで。
次に石本が動いたときに、こちらも動く。そう決めた。
あの日、各務は絵里子に別の仕事を当てがって、石本部長のおつかいには佐藤千佳こと春香を行かせることにした。
だが、絵里子が両方とも自分がやると言って譲らなかったため、一計を案じた。
——その場で彼女と押し問答になってしまうと、訝しく思う社員も出て来るかもしれないからな。
そんな各務の言葉を聞いて、今回のことが上手く運んだのは、彼の部下に対する思いあってこそなのだと感じた。何もしてやれなかった自分が、情けないばかりだった。
春香を通じて、石本からキャンセルの連絡があったと絵里子に伝え、作業をさせている間に絵里子が石本から受け取った封筒をすり替えた。
そうして石本との待ち合わせ場所には絵里子ではなく、春香が向かうことになった。
自分も日坂と共に現場に張り込んだ。
絵里子ではなく春香が現れたことに石本はかなり驚いた様子だったが、春香が親し気に腕を組むと、いやらしく相好を崩しながらホテルに消えた。
あんな男にと思うと絵里子が可哀想なり、部長に対する怒りがさらにこみあげた。
春香には入る部屋をイヤモニで指示し、隣の部屋で待機した。
音声は鮮明に聞くことができた。
——まさか立花くんが、君を差し出してくるとはね。彼女も美人だしスタイルはいいし、悪くはなかったんだが、いかんせん背中の傷が見苦しくてな。
——立花さんのことなんか忘れちゃってください。わたしの方が若いし、わたし、部長みたいなおじさま、タイプなんですもん。ねえ、お小遣いももらえたりするんでしょお。
——ああ。任せておけ。悪いようにはしないよ。
——だ〜め。まだシャワーもしていないし。
焦って迫っているのであろう石本を春香が軽くいなす。
見えはしないが、光景が目に浮かんだ。
春香に万一のことがあってはいけない。異変を感じたら、日坂と二人、すぐにでも隣室へ飛び込む準備はできていた。
——それにぃ、絵里子先輩から頼まれていることもあるんですぅ。
——何だ、いったい?
——部長、先輩の恥ずかしい画像とか持っているんでしょ。だめだよ、そんなことで女の子を脅したりしちゃあ。それ、全部わたしに渡して。当然、コピーとか残すの無しだからね。
——分かった。家には置いておけないからな。このスマホのほかには、会社の引き出しにあるメモリーだけだ。もともとあんなものを流出させて向こうがやけになってしまったら、こっちの立場が危うくなるリスクがあるからな。彼女を引き留めるために使っただけで、実行するつもりなんかなかったよ。
——ほんとうに? それで全部?
——ああ。ほんとうだよ。
——分かった。今度から、わたしのことはこそこそ撮らなくても好きなだけ撮っていいわよ。わたしもその方が興奮しちゃうから。ね、部長。
この様子は春香が仕込んでいた隠しカメラでも撮影されていたらしく、部長を黙らせる材料のひとつになったようだ。
彼女はシャワーに入る前に、睡眠薬入りのドリンクを部長に飲ませた。
その後、部長が寝入ったとの連絡を受けて、二人で隣の部屋に移った。
あろうことか、春香は一人でビールを飲みながら、アダルトビデオを見ていた。
日坂がこっちを見て、ため息をついた。
——な。こういう女なんだ。心配しただけ損をした気にさせられる。
あとの処理は早かった。
逃げられないよう、眠っている間に石本の手足を拘束した。
目を覚ました石本に、悪行の証拠を突き付け、刑事告訴されたくなければ二度と絵里子たちに関わらないことを約束させた。
会社としても出来れば不正経理の件は表沙汰にしたくはないという意向が強く、懲戒解雇は免れなかったものの、横領した資金は返済をする約束で刑事告訴は見送る決着となったようだ。
絵里子の画像データについては、部長のスマホ内のデータは消去後にスマホごと破壊し、保管してあったメモリも破棄をした。念のため、後日春香と日坂が部長宅に出向き、奥様に事情を説明したうえで承諾を得て、クラウド契約も含めて徹底的に捜索をしたが、何も見つからなかったということだ。
「もし何か隠し持ってたとしても、あいつは何もできないよ。それだけの保険はかけてある」
「ホテルでの春香ちゃんや我々とのやり取りですね?」
「それもあるがな」
日坂は春香に目をやった。
彼女はUSBメモリーを手にしていた。
「はい、問題。このメモリーには誰の恥ずかしい画像が入っているでしょうか」
「まさか」
「部長が寝ている間に、ちょっとね。こんな純真な乙女にこんな汚れ仕事をさせるなんて、ほんとブラックな職場ですよ」
「俺がやるって言ってたのに、おまえが喜んでやったんだろうが」
春香は特に言い返すこともなく、女将とも張り合えるような笑顔だけで日坂を撃退したようだった。
「で——」
日坂が声のトーンを変えた。
「彼女とのことは、本当にどうしようもないのか?」
せっかく春香が明るくしてくれていた空気は、瞬く間に沼の底に沈んだ。