(25)想いの沼底5
雨の公園——。
ずっと前の出来事のようにさえ思えるが、あれは今日のことだ。
小さな滑り台の下で雨宿りをしていた彼女は、初めて言葉を交わしたあの日とは裏腹に、差し出した傘を拒絶した。
「彼女は自分から言おうとしたんですよ」
「何を?」
「石本部長とのことをです。あんまり僕が別れないって言うもんだから、これでもかっていうつもりで、それを聞いたら僕が愛想を尽かすだろうと思って、言おうとしたんだと思います……」
「それで、それを聞いてなんて答えたんだ?」
「聞いてませんよ! そんなこと、絶対に誰にも言いたくないことを、絶対に知られたくないことを、言わせるわけにはいかないじゃないですか」
彼女も最初はあれこれと別の理由を積み上げていた。
——東京でやりがいのある仕事が見つかったの。しばらくは仕事に専念したいから、恋愛なんかする気になれない。ましてや遠距離恋愛なんて面倒くさいことは、やっている余裕がない。
これまでの仕事だってやりがいがあると言っていた。大事な取引先も任せてもらえるようになってきたのだとも。それでも、これまでつき合ってきたのだから、仕事のことは理由にならない。
遠距離だって最初は避けられないにしても、一年もすれば解消することだ。その程度の時間と距離に堪えられない関係だとは思わない。その間にもこちらから東京に会いに行くし、面倒はかけさせない。
そう伝えても彼女は
——それが面倒なの。遠路はるばる来られたら、こっちだって気を使うじゃない。新しい仕事なんだから、今までのようにはいかないのに。余裕のないときに来られても会う気になんかなれないし。何より、本当に会いときにすぐ会えないのなら、つき合っている意味がない。
忙しくて余裕がなかったら、また会いに行けばいいだけのことだ。
絵里子が会いたくなったときは、何を置いても最優先で飛んで行く。
——だから、それが鬱陶しいって言ってるの。仕事に集中できなくなる。適当なこと言わないで。夜中にわたしが会いたいって言ったらどうするの? 飛んで行くって、空でも飛んで来る気? そんな中学生でも言わないようなこと、言わないで。……歳上のくせにまだ学生だし、チョココロネとか天津飯とか、子どもみたいなものばっかり好物だし。こっちはちゃんとした社会人で大人なんだから。周りには、もっと大人の男性が、いい男がたくさんいるんだから。……好きじゃない。……もう、あなたのことなんか好きじゃない。
——嘘だ。なんで嘘をつくんだよ。
彼女の気持ちが自分から離れたなんて、信じられなかった。
それに、遠距離になることや転職をすることも、乗り越えられない障害だとはとても思えない。
でも、今の彼女に対して——石本部長とのことを隠して罪悪感を抱いている彼女に対して、嘘をつくなというのは禁句だったのかもしれない。
雨は強くなっていた。
唇を噛んで俯いたまま、じりじりと
傘を差しだすようにして近づいた。
——来ないで!
その勢いに一瞬だけたじろいだ。
彼女は、雨なのか涙なのか分からないものに
——そう、そうよっ。わたしっ、嘘をついてたの! わたし、わたし——。
違う。
言うな。
そんなことを言わせたいんじゃない——。
さらに傘を差し出しながら一歩踏み出すと、彼女はまたそれ以上にさがった。
「その距離を、詰められなかったんですよ。僕には……」
差し出した傘を拒絶されて、もうどうすればいいのか分からなくなっていた。
やがて、雨の中を傘も持たずに駆けて行ったそのうしろ姿を、見送ることしかできなかった。
「馬っ鹿みたい」
日坂らが言葉を探していたのであろう合間を縫って、遠慮のない直球を投げつけてきたのは春香だった。
「正直に全部知っているって言えばいいだけじゃないですか。部長のとのことは全部知ってるって。その上で、まだ好きなんだって言ってあげればいい。それだけのことじゃないですか。神堂さん、優しいふりをしてるだけですよ。本当は部長とああいう関係だった絵里子さんのことが、受け入れられない——許せないだけなんじゃないですか。
「おい、春香」
日坂の言葉を遮ったのは、女将だった。
「わたしも春香ちゃんの言う通りだと思うわ。神堂さんはいい人だけど、間違っている。一番大事なものは何なのか、見失っている気がする。……もし、絵里子さんの、部長とのことが許せないっていうなら、それは仕方のないことだと思う。それだったら、わたしも神堂さんを責めたりしない。わたしだって自分がその立場なら、相手を許せるとか気にしないとか言えないもの。でも、あなたが本心からそうじゃないって言うのなら、一体何のための努力だったの? 結果的に絵里子さんを悲しませて、失ってしまったのなら、何のための優しさなのか分からない。そんなのは優しさじゃない。春香ちゃんの言う通り、所詮は絵里子さんを許せないだけじゃないの——全部彼女のせいにしているだけじゃないのって、そう思われても仕方がない」
二人の言うことが分からないわけじゃない。
けれど、自分が全部知っているということを打ち明けるということは、各務次長や日坂たちも知っていることを伝えざるを得なくなるということだ。
そう言うと、また春香が吠えた。
「どうしてそうなるの? 知っているのに知らないふりはするくせに、そこは嘘はつけないってどういうことですか? わたしたちのことなんか言わなきゃいいだけじゃないですか。何とでもうまく誤魔化せばいいじゃないですか。そんなの、今度はわたしたちのせいにしてるだけですよ。絵里子さんと別れたくないというのが本心なのなら、何とでもできるはずです。——全部正直に包み隠さず話してしまえばいい。わたしが絵里子さんの立場なら、そうしてもらった方がいいって、絶対そう思います」
「神堂よ。こいつは口は悪いが、この件に関しては間違ってはいないと俺も思うよ。でもまあ、俺と春香の違うところは、俺にはここから先は探偵の出る幕じゃないってことが分かってるっていうことだ。俺たちが依頼されたのは、彼女との仲を取り持つってことじゃなかったからな。それでもな、浮気の証拠が欲しいんじゃないと言ったのは神堂、おまえだ。それはつまり依頼の目的が、彼女と別れずに済むようにするってことじゃなかったのか? 少なくとも俺はそう思っていたよ。最初は理解できていなかったけどな。でも、途中からはそれがこの仕事のモチベーションでもあった。……これは探偵としてではなく言わせてもらえば、もう一度よく考えてみろ。まだ手遅れじゃないはずだ」
日坂はそう言ったが、結果的には手遅れだった。
まだきちんとは気持ちの整理もつかないまま向かった彼女の部屋は、もぬけの殻だった。
携帯電話は繋がらず、LINEは既読にならない。メールは届かずに戻って来る。
東京の何処へ行くとも、何の仕事をするとも聞いていない。
思い切って各務次長にも訊ねてみたが、同じく連絡はつかなくなったということだった。連絡の必要などないように、仕事の引継は完璧になされているらしかった。
整理がつくもつかないもない。
彼女は完全に姿を消し、行方を探す手掛かりは残されていなかった。
あらためて探偵に彼女の行方を調べてもらうという手もあっただろう。現に日坂からもその申し出はあった。けれど、それを断ったのは、彼女のことを諦めたからではない。
彼女との縁を信じたかったからだ。
( 想いの沼底 —— 終 )