(16)キスくらいしていれば
長い睫毛と二重瞼に守られた、その中にあの夜の星空が広がっていそうな茶色い瞳。
あと一センチ、手を動かすだけで触れ合えていたあの夜——。
ストーカーになったのは、ふられた理由に納得がいかなかったからだ。彼女が何を言っているのか分からなかった。ただ、ふられたという事実だけは認識できた。
あの時、もっとごねておけばという後悔は自覚することすら拒絶して、コンクリート詰めにした上に鎖でぐるぐる巻きにして重しを付けて、心の奥底深くに沈めて生きてきた。その後悔の重しが取れて浮かび上がってきた気がした。
いやだ。まだ始まったばかりなのに別れるなんて。
そう言って駄々をこねればよかった。
物分かりの良い男を気取って、彼女の申し出をすんなりと受け入れた愚か者。青二才。大馬鹿野郎。
「わたしはね、あの一年、楽しかったんだよ。合宿所の夜から、あなたがわたしにやっと告白してくれたあの日までの一年。わたしは一番楽しかったかもしれない」
また訳の分からないことを言い始めた。その一年、付き合う前の一年の間に一体何があったというのか。
「この人はこっちが背中を押してあげなきゃ、ううん、背中を押したくらいじゃ足りないか。
自分のことを言われているという実感が湧かなかった。ただ、背中に松明? カチカチ山じゃあるまいし。針で突くよりも酷いじゃないか。そんなことを思った。
いや。そんなことより何より、彼女の方はとっくの昔にこちらの想いに気づいていたということじゃないか。
「合宿所でのあの夜、部屋を抜け出したあなたを見かけたのは偶然だったけど、これはチャンスだと思ったの。あのロケーション。あのシチュエーション。告白するにはもってこいだって。でも、あなたは時々無駄にロマンチックなことは言うくせに、肝心なことは何も言わないんだもの。
意気地なしに生きる価値なしって言ったの覚えてる? あそこまで言っても何もできないんだから、ほんともうがっかりよ。最低最悪。合宿が終わってしまったら、あれ以上の好機なんて望めないのに。馬っ鹿じゃないのって思った。
でもね、でも、あなただってきっと後悔しているんじゃないかなって思ったの。なんであの夜に告白しなかったんだ、俺のバカバカバカ。うかうかしているとあんな可愛い女の子、すぐ他の男に取られちゃうぞ。今度こそ、今度チャンスがあったら絶対に告白してやるって、そう決心しているんじゃないかって。きっとそのはずだって思ったの。
だから合宿のあと、大学からの帰り道が一緒になるように何度も何度もそっちに合わせたのに。それなのに、あなたは何も言ってこない。それでも楽しかったよ。あなたと二人で帰る道。あれはわたしにとってはデートだったもの。お互い遠慮なく馬鹿言い合って。今なら絶対にセクハラだって訴えられそうなことを、女の子のわたしに平気で言ってくるし。腹が立つこともあったけど、腹が立つことなんてつき合っているカップルにだっていくらでもあるものでしょう。楽しかった。
それなのに、いくら待っても告白してこないもんだから、さすがのわたしも途中からは諦めかけてたけどね。絶対わたしの方が先に告白なんかしないって決めてたし。しないっていうか、できないもの、恥ずかしくて。告白なんて。でも、それでも楽しかったからよかったの。
で、あの日よ。こっちがもうすっかり諦めモードに入ってたっていうのに、そんな時にあなたは急に告白してきて。遅いわよ。わたしはもう一年も勝手にデートを楽しんでたっつーの。やっぱり馬鹿じゃんって思った。でも、嬉しかった。初心を思い出したというか、そうだ、わたしはこれを待っていたんだって思い出した。
でも、そのあとが駄目だった。あなたはわたしに一切セクハラめいたことは言わなくなっちゃった。最初のうちはわたしも気づかなかった。だけどなんか違うなあって思って、どんどん違和感が大きくなって。で、思ったの。わたし、気を使われているんだって。こんなのやだって。前の関係の方が楽しかったって」
半ば呆然として聞いていると、彼女は急に顔を近づけてきて、耳元で囁くようにして言った。
「せめてキスくらいしていればね」
驚いて彼女を見たが、今度は目を合わせてはくれなかった。
澄ました表情でグラスを口元へ運ぶ横顔を黙って見ていた。
微かに開かれた唇がグラスに触れた。傾いたグラスから、透明な液体が唇の隙間に染み入るように流れ込む。唇がグラスから離れ、ほんの少し上唇を舐めるような仕草と同時に白い喉が動いた。
女性が酒を呑む行為がこんなにエロティックなのだと、初めて知った。
「そんなに見ないで。冗談よ、冗談。ね。本気にして、またうじうじしないでよ。今からストーカーになんかなったら大変だよ。バンクーバーだからね」
彼女は自らの長い話を茶化して笑った。