71.ほんの数秒のーー
逢坂は身体を前倒しにすると、ちひろの顔に自分の顔を近づけ、低い声でこう言った。
「おれは無理なことを君に強いる気はない。できると思っているから命じるんだ。考えろ。何かアイディアがないか。見落としはないか。……売れているメーカーは何をしているか。調べて悩んで、最適な答えを出してみろ」
「逢坂社長……」
考えろ。
調べろ。
悩め。
そして最適な答えを出してみろ。
ちひろは彼の言葉を心の中で復唱した。
胸にしっかりと刻み込み、自分なりにかみ砕く。
「はい。……やってみます」
「よし。楽しみにしている。明日には施策の提案書を出してくれ。それと、あまり遅くまで仕事をするなよ。月45時間を超えた時間外労働は、企業に罰則が科せられるからな」
月45時間を超えた時間外労働は、企業に罰則が科せられる――
いつだったか思い出せないが、以前にも同じ内容のことを聞いたこ記憶がある。
「はい。すみません。ご迷惑をかけないようにします」
不用意に残業して、会社に傷がつくような真似をしてはならないと考えたちひろは、小さく頭を下げた。
すると、頭をポンポンと労わるように優しく叩かれる。
「……迷惑というより、無理な残業は社員の心身を必要以上に疲労させる。おれは社員に意味のない残業や休日出勤を強いたくはない。ただちひろは今が頑張りどきだ。ここを乗り切れば一皮むける。施策の考案に可能な限り頭を使ってくれ」
(逢坂社長は本当に社員思いなんだ。なんか……器が大きいというか、温情深いというか。人徳者だなあ……格好よすぎ……)
逢坂は立ち上がると、鞄とジャケットを取り上げた。
「逢坂社長。あのっ……」
「ん?」
彼がそばから離れてしまったのが急に寂しくなり、つい引き留めるため声をかけてしまう。
しかし言葉は続かない。
どうしたものかと声をかけあぐねていると、彼のほうから行動に移してきた。
逢坂は座っているちひろに近づくと、肩に手をかけて――
(あ……)
するりと彼の胸に取り込まれて、ぎゅっと抱きしめられる。
鼻腔に香るのは、オリエンタルでスパイシーな彼のフレグランスと、ほんのちょっぴりのお酒の匂い。
ちひろの頭部に、逢坂の顎があたる。もうそれだけで脳心がクラクラしそう。
「逢坂……社長……」
彼の胸の中で小さく呟くと、ちひろを取り囲む腕に力がこもる。
時間にして、ほんの数秒――