第45話 逃亡前夜
「さほど高い買い物ではありませんが、ミストリア王国を脱出したら、このホテルはいかがいたしますか?」
ラムジの問いに、ジャファルは素っ気なく答える。
「売却してしまえ。手もとに残してもさほどの利益にはならん」
「かしこまりました。あと……ローゼマリアさまのご両親のことですが、放置していると誤解されたままでよろしいのですか?」
ラムジの問いに、ジャファルは淡々とこう述べるだけだ。
「どこかで誤解は解けるだろう」
彼女の両親より、ローゼマリアへの魔の手のほうが厳しい。
ローゼマリアを先に脱出させることに集中し、それから両親を救い出しても遅くはないだろう。
しかし再びローゼマリアを奪われたら、今度は命を奪われてしまいかねない。
そうと確信するには理由がある。
ホテルの中庭に放たれたアリス一派の密偵から、異様な殺気を感じるのだ。
(なぜそこまでローゼマリアを追い詰めるのかは知らんが……次期王太子妃という地位から蹴落としたのなら、これでじゅうぶんのはずだ。命を狙う理由がどこにある)
考え深げな表情のジャファルに、ラムジが困った顔で話しかける。
「それにしても……ご命令どおりのお衣装を用意しましたが、その……ローゼマリアさまがお怒りになりませんか?」
「構わん。これも作戦のひとつだ。それより俊敏に頼む。明日の朝は早いぞ」
ラムジが一礼すると、にっと不敵に微笑んだ。
「お任せください。では、早速明日の準備を手配してきます」
「頼む」
ラムジが部屋から出て行くと、ジャファルはずっと立ち上がった。
バーカウンターに置いていたワインを手に取り、ソムリエナイフで器用にコルクを抜く。
ワイングラスに注ぐと、手に持ち香りを楽しむようにゆらゆらと揺らす。
そのまま窓へ向かい、そっとカーテンの隙間から外の様子を窺った。
眼下には、緑豊かなホテルの中庭が広がっている。
夜に散歩をする酔狂な客のためか、夜でもランタンがいたるところに灯され、幻想的な趣だ。
しかし今はその庭に、不穏な人影がちらほらと蠢いていた。アリス一派の手先だ。
「確か……あれは、パーティの席でローゼマリアの謎の悪行とやらをつらつら述べていた、筋肉バカ野郎ではないか」
厳つい男が、散漫な動きで庭を徘徊している。
「ふん。実に目障りだ。なにをどうしても、ここまでくることはできないというのに。脳内まで筋肉とは、お粗末なことだ」
ジャファルは、最高級ホテルの最上階インペリアルスイートフロアには、この三人以外誰も入れないように手配していた。
最上階へに通じるエレベーターも、暗証番号を打ち込まねば最上階まで動かない仕組みになっている。
そこまでのセキュリティがあるから購入したホテルである。
ジャファルの目が光っているうちは、容易にローゼマリアには近寄らせたりしない。
「さて……と、明日の朝が勝負だな。私のローゼマリアを、易々と捕まえられると思うなよ」
ジャファルはニヤリと笑うと、ワインを一口含む。
カーテンをしっかり閉じると、明日のスケジュールについて頭の中でシミュレーションを数回繰り返した。