七十二話 最後の牙
生野は動揺する心を無理やり押さえつけ、信じるものかと首を強く振る。
目の前の男は、八犬家の、犬坂家の中に一夜衆の血が流れていたから、八犬家の解放に力を貸したと言っているのだ。とうてい信じられる話ではない。
「まあ、信じたくなければ信じなくても構わんよ。信じようと信じまいと、事実は変わらぬからな。それよりも、もう一つ疑問に思っているだろうことを解決しておこうか。貴殿にどれだけの時が残されているかわからんからな」
幻之丞がひとつ手を打った。生野の左手側の闇に蝋燭の火が灯った。その灯りに女の顔が照らされた。煎十郎を崖下へと落とさせた、あの女だ。
生野は思わず立ち上がろうとしたが、足をしっかりと括られていては、体が前のめりになるだけで立ち上がることなど叶わない。
「お怒りのようでございますね、生野様。……煎十郎様のことは仕方がなかったのです。ああせねば、お二人とも落ちてしまっていたでしょうし、私がお迎えできる殿方はお一人だけでございましたから」
女が微笑んでそのようなことを言うが、生野には意味がわからない。言い訳にすら聞こえない。
「その娘が、先ほど話した乙霧でござるよ。一夜の男の中には、一夜の術を完成させることのできる相手が見つからなかったゆえ、本人が危険なめに会うことは承知で外にだしたのだが、いやいや、まさかこのようなことになるとは……。乙霧には貴殿の生い立ちは話してはいなかったのだがな。いや、まったく人の生というものはなにが起こるかわからん」
幻之丞はさもおかしそうに笑った。
「これが、貴殿の疑問に対する答えだ。貴殿が一夜の血を引いているからここに連れてきたわけではない。ひとえにこの乙霧に、一夜に相応しき子を孕ませるため」
幻之丞の言葉を乙霧が引き継ぐ。
「あの時までは、煎十郎様をお連れするつもりでございました。煎十郎様に初めてお会いした時、下腹部が別の生き物のように
貴方にお会いしてしまったのですと、乙霧は頬を赤く染め軽く目を伏せた。
「まさか、煎十郎様にお会いした時の感覚が序の口だとは思いもしませんでした。生野様にお目にかかった時のあの全身が蕩けるような感覚。自分で体を押さえなければ、体が溶けて、心だけで貴方様を求めてしまいそうなあの感覚。いまも忘れることができず、私の身体と心を縛りつけております」
生野には目の前の女が人であるとは思えなくなっていた。恐ろしくさえ感じる。言っていることが理解できぬこともさることながら、美しい女の妖しい笑み。全身から放たれているように思える妖気。この世のものとは思えない。
「それでも、我慢はするつもりでした。いかに望もうとも生野様と私は敵同士。結ばれることはないと。……ですが、天は導いたのです。わたしに生野様を里にお連れせよと、二人をあの状況へと追いやったのです。まさに万にひとつの奇跡でございました!」
生野は乙霧を怯える気持ちに負けまいと、彼女を睨みつける。
「無理をされるな、生野殿。乙霧が貴殿にこれだけ反応したということは、貴殿も乙霧に下半身が疼いているはず。貴殿も八犬士の血の影響が強いとはいえ、一夜の男としての才能も十分に持ち合わせているようだからのう」
そう言うと幻之丞は立ち上がった。生野へと近づき、肩を軽く叩く。
「乙霧に抗うのは、男である限りは不可能。初見の時は、犬もいて逃げ場もあったことで耐えられたかもしれんが、ここにはしばらく誰も通さぬゆえ、安心して乙霧に狂われよ」
幻之丞が生野の後方にある階段へ向かうのと前後して、乙霧が生野に歩み寄る。
「さあ、生野様。愛しあいましょう。生野様の命が続く限り!」
乙霧が生野に覆いかぶさる。生野はなんとか抵抗しようと一括りにされた足を乙霧に突き出すが、乙霧の動きをとめるには、ものの役にもたたなかった。
乙霧が生野の口を吸い、舌が生野の口の中で暴れ回る。生野の抵抗がやんだ。それどころか、生野の方からも舌を絡め始める。
乙霧の目に喜色の色が浮かび、帯に挟めていた小柄で生野の手足を括っていた紐と布を切り、小柄を闇の中へと放り投げた。
拘束が解かれると、生野は待ちきれんとばかりに、乙霧の着物を剥ぎとる。乙霧の白い柔肌が、蝋燭の灯りに照らされ、艶めかしく揺れる。
生野が乙霧を押し倒した。乙霧は両足を生野の腰に絡め、少しでも早く結ばれんと生野を引き寄せた。
「あ! ああっ!」
これから始まろうとしていた男女の営みにすでに酔っていた乙霧の顔が凍りつき、悲痛な声をあげる。
「いかがいたした!」
女の悦びの声とは明らかに違う声に、一度は上にあがった幻之丞が引き返してきた。
乙霧が、顔を押さえて立ちあがった生野の股間を指さす。
そこには、本来あるべきものがなかった。傷口を焼いたような生々しい痕があるのみ。
さすがの一夜もこの情報は手にできなかった。知恵ある乙霧も想像できなかった。
生野の分身とも言える男根は、生野本人よりも一足先に、愛する女とあの世で一つとなっている。
生野がふらりと後ろに下がり、屈みこんで己のうなじにあてられた布に蝋燭の火をあてた。左で喉の布地をしっかりと押さえ、右手宙に文字を描く。
『我、智を行使するは、我が命次代の生に捧げんが為』
蝋燭の火は、布を簡単に焼き切り、『智』の半珠に光を注ぎ込む。
口をしっかりと閉じ、空いた右手で鼻を塞いで眼を閉じた。
喉にも顔にも逃げ場をなくした光が、喉の中でこれまで以上の高熱を発し、生野の体に火をつける。
『呪言』の光が生み出した誇り高き炎は、他に燃え移る間もなく、この世に名残を一切残すことなく、生野の身体を一瞬で灰へと変える。
二つの半珠が音をたてて床に転がっても、幻之丞と乙霧は声も出せずに、生野が消えた虚空の闇を見つめていた。