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六十八話 八犬士捕縛

 乙霧が崖下を覗き込む様子を、煎十郎は黙って見ていた。いや、眼は乙霧に向けられてはいたが、乙霧を見てはいない。煎十郎が見ていたのは過去。府内にいた頃に見た懐かしき光景。
 生野と煎十郎が住まわせてもらっていた府内の商家の別宅に、八海がやってきたばかりの頃。 連日で降っていた雨があがったある日、煎十郎は庭の見える一室で、生野が翻訳してくれた南蛮の医学書を読んでいた。生野は雨のせいでしばらく外出しなかった憂さを晴らすように、自己研鑚のためと称して府内の町に飛び出す。遊んでもらいたい盛りの八海は、それでもついて回っては主人の迷惑になると理解しているらしく、特に紐で繋がれている訳でもないのに、庭で大人しく生野の帰りを待つ。ただ、退屈ではあったのだろう。縁側をしきりに歩き回っていた。
 その八海が不意に縁側から垣根までゆったりと進んだかと思うと、垣根の根元を掘り始める。
 その様子に気がついて本から顔をあげた煎十郎は、慌てて立ちあがった。八海が掘った穴から外に出ていってしまうのではと思い至ったのだ。
 その心配は杞憂に終わる。穴を掘り終えた八海は、首だけを曲げて後ろを確認し、器用にも自分がつけた足跡にぴったりと足を合わせて後ろにさがってみせた。そのやり方で縁側の前まで戻った八海は、そこから後ろ向きのまま縁側に跳び乗る。そして呆然と立ち尽くしていた煎十郎の前に右の前足をあげ一声鳴いた。どうやら、足を拭けということらしい。
 人はおろか犬にさえ逆らえない気弱な煎十郎は、八海の催促通りに、布を持ってきて四本の足すべてを丁寧に拭いてやり、さらには八海が最初に跳び乗り汚れた場所も拭いてやる。
 それを見届けると、八海はもう煎十郎には用がないと言わんばかりに背を向け、そのまま縁側を歩いてどこかに行ってしまった。
 残された煎十郎が読書を再開し、いつの間にか日が暮れた頃、出歩いていた生野が屋敷へと帰ってきた。
 生野は煎十郎の部屋を訪れ、八海を見ていないかと尋ねる。
 読書を再開してから、一度も八海を見かけていない煎十郎はその通りに答えた。
 どこに行ったのだろうと、頭を掻いていた生野が、庭に目を向ける。庭の様子に気がつき、裸足のまま庭に飛び下り、すごい勢いで垣根へと走り寄った。
 その時、煎十郎は足に何か当たるのを感じた。下を見てみると、いつの間に来たのか八海が尻尾を嬉しそうに振り、煎十郎の足に当てていた。
 八海は足音を立てずに庭に下り立ち、汚れるのも構わずに這いつくばり、八海が掘った穴から外を覗き見ていた生野の上に、のっそりとのしかかる。
 生野が驚いてくるりと身体の向きをかえて、八海を抱きしめた。


「この野郎!」


 そのまま泥だらけになってじゃれ合い始めた主従を、煎十郎は半ば呆れて、半ば羨ましく思って眺めていた。
 煎十郎が過去の幻影を振り払うように首を大きく横に振る。すぐに後ろを振り返り、犬の足跡を辿って抜けてきた森へと急ぎ戻った。周囲の藪が深くなっているところで立ち止まり、辺りを見回す。生い茂る笹の中に、不自然に泥がついているものを見つけると、そちらの藪を掻き分け、奥へと入っていく。


「煎十郎様。いかがなされましたか?」

 
 遠くからの乙霧の声は聞こえてはいても、頭にまでは入らず、煎十郎は藪の中を進み続ける。
 しばらく進んだところで、煎十郎はとうとう見つけた。白く大きな犬が、倒れている人間に覆いかぶさっているのを。
 犬の頭の横から見えた人の顔を見て、煎十郎は息を呑む。その顔は間違いなく府内で共に暮らした友人生野のものであった。
 声をかけようとした煎十郎の頭に衝撃が走る。その力に抗えず煎十郎は前のめりに倒れ、地面に突っ伏した。


「でかしたぞ、煎十郎。まさかお前が見つけてくれるとはな。おかげで面倒なことにならずに済む」


 喜びを抑えきれない逆鉾の声が、倒れた煎十郎の頭に響いた。


―――――――――


 乙霧は森の中から悲鳴が聞こえてくるのを、崖の前で両腕を二人の乱波の女にしっかりと押さえらた状態で聞いていた。
 乙霧の背後にいた女も含め、三人の女の風魔衆が不安げに顔を見合わせる。


「ご安心ください。犬に襲われただけでしょうから」


 乙霧は安心できない言葉をさらりと言った。


「死んでいてもおかしくない怪我をしている筈。おそらく最後の抵抗でございましょう」


 乙霧のその言葉を合図に、森から逆鉾が姿を見せる。後ろに続く風魔衆の一人が、八犬士と思わしき男を引きずり、二人が煎十郎と足を怪我したらしい仲間にそれぞれ肩を貸していた。


「最後で油断されたようでございますね」

「ふん。未熟者がおってな」


 乙霧の皮肉に、逆鉾は鼻をならす。


「それで、私達まで捕えた理由をお聞かせいただけますか、逆鉾様」


 気を失ったままの生野以外が、逆鉾に目を向ける。風魔衆の眼は、乙霧を早く殺した方がよいのではと訴えている。この女は小太郎の協力者。八犬士との争いに勝利したいま、生かしておいても利益はない。
 しかし、すでに勝利を確信している逆鉾は、目の前の美女も戦利品として加えられないかと欲をかきはじめていた。なにせ若い頃は、力任せに北条に敵対する土地を急襲しては、殺したいだけ殺し、奪いたいだけ奪った男なのだ。欲しいものを手に入れるのは、勝者として当然の権利と考えている。生野をその場で殺さず連れてきたのも、『呪言』の力を欲したからだ。


「捕えた? それは誤解だ、乙霧殿。貴殿ならここまで来られるとは思ってはいたが、それは頭領を連れて来てのことだと思っておったのだ。ところが、一緒にいたのは煎十郎。もしも、八犬士がそなたに近づき、破顔丸のように正気を失い襲いかかったら、煎十郎では貴殿を守りきれまい。そうなる前に保護したのだ。……煎十郎は頭領のお許しなくここまで来たようだから、軽い灸をすえただけのこと」


 事前に、乙霧が煎十郎を連れここまで来るだろうと、静馬の予測を聞いていた逆鉾は、余裕をもってそう答える。 
 その逆鉾の返答に乙霧が鼻白む。


「危険を伴う八犬士の討伐に、わざわざ女性の方を連れて来るなど、私への対策としか思えませんが」


「その三人は女と言えども、時雨と同様に乱波だ。手負いの八犬士を追うのに不足はない。山の奥に引きこもっている一夜と一緒にされては困る」


 そうか。この男も一夜のことを知っているのかと、乙霧は納得した。考えてみれば、逆鉾は今の小太郎と同年代。三十年前の風魔による一夜の里襲撃に加わっていたとしても不思議はない。
 乙霧はとにかくこの戒めを解かせようと、もう一度口を動かそうとした。その乙霧の眼の端に、地面に転がされていた生野の指が動いているのが引っかかる
 まずい。そう思った時には遅かった。乙霧の見ていた世界が突然白一色に染まる。眼が熱い。周囲からも苦しむ声が聞こえ、乙霧を押さえ付けていた女達の力が緩む。乙霧は熱さに耐えながら、女たちの手を振り払い、頭だけを両腕で庇い、その場にうつ伏せる。


「くそっ! 何事だ!」


 逆鉾の怒声が聞こえる。続く複数の悲鳴。乙霧は最悪の事態にならないことだけを祈りながら、うつ伏せたままじっとする。誰かに体を何度か踏まれたが、声をあげずに堪える。ただひたすらにじっとして視力の回復を待つ。
 金属同士が激しくぶつかり合う音がした頃になって、ようやく乙霧の視界が戻った。
 乙霧はなるべく体を動かさないように注意して周囲の状況を確認する。
 まず、目に入ったのは乙霧を押さえていた女衆の一人が血を流してぴくりとも動かぬ姿だ。そこから、そろりと首を動かすと、順に動かぬ肉となった風魔衆の姿が映る。
 荒い息遣いが聞こえ、乙霧は視線を上にあげる。逆鉾と生野だ。
 生野は片膝をつき、刀を地面に突き立て、空いている手で喉を押さえ荒い息をついている。対する逆鉾は、右手で顔の半分を押さえ、左手で忍刀をふり上げていた。


「やってくれたな、死にぞこないめ! だが、これで終いだ!」


 逆鉾が吠える。だが、生野の頭に落とされたのは、白刃ではなかった。生野の頭を打ったのは、逆鉾の頭。胴体から離れた、逆鉾の頭。
 乙霧には、このことが自身にとって希望なのか絶望なのか、判断がつかなかった。
 なぜなら、倒れた逆鉾の身体の向こうで刀を鞘におさめていたのは、薄笑いを浮かべた静馬であったから……。

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