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六十三話 見覚え

 煎十郎は、いつもの大きな箱を背負い、時雨と共に小田原城へと向かっていた。むろん小太郎の指示である。小太郎は小田原城上空に八犬士が現れたとの報せが届くとすぐに城に向かったが、暫くしてしてその小太郎からの使いが風魔屋敷に来て、煎十郎に本丸で負傷者の治療にあたるようにとの指示が連絡組よりもたらされた。どうやら八犬士との戦には勝利したものの、北条方の守備兵にかなりの負傷者がでたらしい。北条に医者がいない訳ではないが、小太郎としては少しでも氏康の印象を良くしておきたいという考えなのであろう。
 時雨と言葉を交わして心が落ち着いたのか、夕刻より眠りについていた煎十郎だったが、この報せに飛び起き、仕度を整えてくれていた時雨をともない、本丸への道を急いでいる訳である。
 ただ、箱が少々重い。煎十郎が書き上げた書までもが詰め込まれているせいである。時雨曰く、静馬から火急の報せが届きし時は、この書も持たせて出立させよと言われていたものらしい。静馬の考えは煎十郎には想像もつかないが、彼がそういう指示を時雨にだしていたのなら、なんらかの意図があるのだろう。
 もうすぐ二の丸に続く銅門にたどり着こうという所で、大きくて白い毛並みの犬が二の丸方面から現れ、驚くべき速さで、二人の横を駆け抜けて行った。


「煎十郎殿! あの犬、怪我人を背負っていたようでございます!」


 犬が消えた闇を指さしながら時雨が叫ぶが、煎十郎からの返事が返ってこない。


「煎十郎殿?」


 時雨の声が届いていないのか、煎十郎は犬が飛び込んでいった闇を呆然と見つめていた。
 再び時雨が声をかけようとしたのを遮ったは、背後から聞こえた数人の足音である。


「お前たち! 犬を、犬を見なかったか!」


 先頭を走っていたのは小太郎だった。二人の風魔衆を引き連れ鬼のような形相でこちらに駆けてくる。


「白い犬だ! 人を背負っていたであろう! どちらへ行った!」

「お、大手門の方に……。父上、いったい何が……」

「説明している時はない! お前たちは早く本丸へ行け!」


 怒鳴りつけるようにそう言うと、小太郎達も闇の中へと消えて行く。


「いったい何ごとでございましょうか?」

「……八海……」


 そう呟いた煎十郎が、突如走り出した。本丸にではない。犬の消えた先に向かってだ。


「煎十郎殿!」


 時雨も慌てて後を追う。
 二人が大手門へとたどり着いた時には、大手門の見張りの者達がざわついていた。
 聞き耳をたてれば、あんな大きな犬は初めて見ただの、最近風魔がでかい面をしているだのそんな言葉が聞こえてくる。どうやら人を担いだ犬も、小太郎達もすでに大手門を抜けた後のようである。
 大きく肩で息をしながら、悲壮な顔つきで大手門を見つめる煎十郎に、時雨は堪らず声をかける。


「煎十郎殿、いったいどうなされたのですか? 先ほどの犬に心当りでもおありになるのですか


 煎十郎は答えずに歩きだす。そのまま、番兵に頭を下げ大手門を抜ける。


「……似ていたのです」


 城下町に向かって歩く二人の身体を、降り出した雨がうっすらと濡らし始めた頃、煎十郎は思い出したかのように時雨の問いに答える。


「あの犬が……私のよく知る犬に……」


 あの犬は、日本でよく見かけられる犬とは明らかに違う。体躯は日本の犬よりはるかに大きく、耳がどこにあるのかわからぬくらい豊かできれいな白い毛におおわれていた。
 煎十郎はその犬によく似た犬を見たことがある。それどころか、共に生活をしたことさえ……。
 そして顔こそ見えなかったが、先程の犬が背負っていた者の体格は、煎十郎がよく知る人物に似てはいなかったか?
 煎十郎は言葉にだせぬ不安に襲われた。怪我人のことも、これからのことさえも頭からすっぽりと抜け落ち、あの白い犬を追いかけたい衝動に駆られる。だが、それはできる筈もない。煎十郎は本丸に仕事がある。なかったとしても犬はもちろん小太郎達にも追いつけない。
 

「おう。二人ともこんな所にいたか。これは丁度良かった。屋敷に迎えに行く手間が省けたな」


 当てもなく雨に打たれながら歩いていた二人に陽気な声がかかる。


「静馬さん?」
「兄様?」


 二人が揃って顔を向けた先には、馬を二頭ひいて歩く静馬の姿があった。


「迎えにとは? いったいどうなされたのですか?」


 時雨の問いに、静馬は一頭の首筋を叩きながら答える。


「うむ。実は最後の八犬士にまんまと逃げられてのう。相手は犬に乗っておってな。頭領たちが馬鹿正直に追っておるが、じきに見失うであろうから、探すのをお前たちにも手伝ってもらおうと思ったのだ。人手は大いに越したことはない。蟒蛇(うわばみ)にも頼んだのだが、あやつ首を強く捻られたとかで、しばらく大人しくしているそうだ」


 唐突な静馬の依頼に時雨は困惑する。


「い、いえ。兄様。私達はこれから本丸に戻り―――――」

「行きます! 手伝わせてください! 拙者もあの犬を見つけたいのです!」


 もしかしたら、そこに親友がいるかもしれないのだ。煎十郎が初めて小太郎の指示以外のことを優先させようとしている。珍しい煎十郎の剣幕に、静馬は目を大きくし、時雨はすぐさま手のひらを返す。


「行きます。兄様、一頭は私達が使わせて頂いて宜しいのですよね?」

「お、おう。時雨はともかく、煎十郎が乗り気になってくれるとは思わなかったな。助かる。頼むぞ」


 若干引き攣った笑みを浮かべ、一頭の手綱を時雨に渡そうとする。


「お待ちください。八犬士の追跡、是非私もお連れくださいませ」


 乙霧である。少しばかり変わった形状の傘を差し、悠然と建物の陰から進み出て来る。


「乙霧殿。貴殿はもう充分に役目を果たされたと思うが……。もしかして、貴殿も最後の八犬士に興味があるか?」


 静馬の問いに、静馬にはさして効果がないのだろうと思いつつ、乙霧は妖艶に微笑む。


「ええ、静馬殿と同じでございます。『呪言』を生みだし、ここまでの計画を立てた相手……。是非ともきちんとご挨拶したく……」

「そうか。まぁ、拙者としては助かるな。これでかの犬を見失うことはなかろう」


 静馬の言葉に乙霧は不思議そうな顔をする。


「あら? 私はあの犬の行方など存じませんよ?」


 静馬が声をあげて笑った。


「なにを言われる。貴殿には、一夜の眼があるではないか」


 そう言ってあらためて時雨に手綱を渡し、乙霧を後ろに乗せるよう指示すると、自身は煎十郎を後ろに乗せ、ゆっくりと馬を走らせた。

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