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六十四話 愛する父

 彼女はこれまでにない程、身体を軽く感じていた。まるで自身の名前のように、風にでもなったかのようだった。道を阻もうとする者は躱し、追いかけようとする者は置き去りにし、彼女は小田原を脱出した。
 人ひとりを背負って走る彼女の姿を見たものは、とても彼女が瀕死の重傷を負っているとは信じることはできなかったろう。
 彼女は高所から落下した彼女の大事な主人を、身を挺して庇《かば》った。
 落下した主人の体を受けた彼女の骨は折れ、彼女の内臓をいま生きているのが不思議な程に傷つけている。
 小雨が降り出す中、一度海岸方面へと出た彼女は、途中で進路を変え、小田原の北を大きく迂回し、山林へと入った。
 一目散に安房を目指したかったが、安房まで自身の体が持つとは思えない。そこで、目立つ海岸沿いを避け、山に一度身を隠し、背中で眠る大切な主人に、体力を回復する時を与えることを選んだ。本来ならありがたくない雨も、今は熱くなりすぎた主人の体にはありがたい。しばらく時を稼ぐことができれば、自力で安房に戻る体力を取り戻してくれる可能性はある。
 何とか安房へ帰してあげたい。愛しき主人であり、父でもあるこの人を。己を彼女の母の仇だと、胸の内で責め続けている悲しいこの人を。
 彼女はこの世に生を受けて、まだ一年に満たない。体はわずか半年で大人と同等の大きさに育つ。たくさんの人の愛に包まれ、健やかに育った彼女だったが、育ててくれた人たちは、決して恵まれた環境にはいなかった。
 父がその環境を変えるために旅立つ日、彼女は父の命に逆らい、父たちを追いかけ、船に飛び乗り、無理矢理に同行した。
 あそこで別れていたら、二度と会えないというのがわかったからだ。二度と帰らない父を待ち続けるくらいならば、最後の日を共にしたい。きっと亡き母も生きていたとしたら同じ道を選んだろう。
 母もまた彼女と同じく、命を捧げるほどに、主人のことを愛していたのだから。母が主人と府内という地から、主人の故郷である安房に来たのは二年ほど前。
 到着してまもなく母は彼女を身籠った。父親はどこの馬の骨とも知れぬような者ではない。母を身籠らせたのは主人であったのだ。
 主人は八犬家に戻る前に、安房の四方に安置されていた仏像の目に使われていた八つの珠を回収した。はるか昔に力を失ったというその珠は、主人が回収した時には、少しばかり力を取り戻していた。ただ、光を取り戻してはいたが、珠に浮かび上がっていた文字は、初代達が神通力が如き力を振るった際に浮かび上がっていた『仁義礼智忠信孝悌』の八字ではなく、その前に浮かび上がっていたという『如是畜生発菩提心』の八字であった。
 主人はこれを、義堯の八犬家に対する怨みが晴れていないことの証しであり、八犬家に向けられた呪いであると判断する。
 死んでいる者の怨みであれば供養もできようが、生きている人間。しかも主人の主人になる相手からの怨みでは、こちらが死ぬ以外に晴らす術が思いつかない。
 そこで主人は、この珠にかかった呪いを疑似的な方法で解こうと考えた。八つの珠が産まれた時の状況を、自ら作りあげようとしたのである。
 主人は母を連れ、かつて初代八犬士が隠棲した地であり、八犬士の魂の両親ともいえる八房と伏姫がこもった地でもある、富山の地に入山した。
 主人は母の食事に八つの珠を混ぜ込み、母に飲み込ませ、かつて伏姫がしたように、毎日母と一緒に暮らしながら法華経を読経し続けた。
 富山という地が霊的な力に恵まれた地であったのか、呪いの力がそうさせたのか、二人の生活が一ヶ月を過ぎたある日。母の腹が膨らむ。母は愛する主人の気を受けて懐妊したのだ。
 主人は狼狽する。自分でこの行為を始めたものの、本当に母が懐妊するとは思っていなかったのであろう。八犬家を救わねばならぬという重責を背負いながら、その方法が見いだせず、藁にもすがる思いで、この行為におよんだのだ。まさにこれは、奇跡とも呪いとも呼べる出来事。
 己の懐妊を悟った母は、両膝をついて母を見つめたまま固まってしまった主人の腰から、主人の刀を引き抜き主人の前に置いた。
 母は聞いていたのだ。主人とその友人との長崎での生活の中で。初代八犬士の活躍の物語を。
 主人は震える手で刀を手に取った。
 母は大地を背にして寝転がり、服従の姿勢を父にとる。
 主人は血の涙を流し、嗚咽を漏らしながら母の腹を裂いた。この時の主人の姿を、母は、彼女は一生忘れない。
 主人は母の腹に手を入れ、珠を取り出した。取り出した八つの珠は真ん中からきれいに割れ、十六の半珠となって主人の手におさまった。
 そのうちの半分は、父の一縷の望みに応え、『仁義礼智忠信孝悌』の文字を宿していたが、もう半分はこれまで通り、『如是畜生発菩提心』の文字を宿したままであった。
 唖然として半珠を見ていた主人がはじかれたように顔をあげ、すでに息を引き取っていた母の腹に耳をあてた。
 主人は聞いたのだ。死の国へと旅立った母の腹から、生命の息吹が吹きすさぶのを。
 主人が半珠を置き、もう一度母の腹に手を入れる。次に引き抜いた時には主人の手の中で産声をあげる彼女がいた。
 この時、彼女は喜びのあまり鳴いていたのだ。これでまた、愛する主人のために命をかけて働くことができると。彼女は彼女でありながら、母でもあった。母の記憶と想いを引き継ぎ、新たな命としてこの世に誕生したのである。
 すでに東の空から陽が顔を出しはじめ、長き夜は終わりを告げた。
 主人を背負い、走り続けていた彼女が血を吐きだす。いよいよ最後の時が近づいている。
 だが、もう少し。彼女の鼻と耳は、いま目の前に広がる森の向こうに川の存在を感じ取っている。
 彼女が森に足を踏み入れてから程なくして、彼女は崖に行き当たった。彼女の鼻が嗅ぎ取ったのは、この崖の下を流れる川のものであった。彼女は崖へと向かって、地面を踏む足に力を入れゆっくりと歩く。
 川を見下ろせる崖の端まで進み出て、彼女は歩みをとめた。そこから、前を向いたまま、慎重に後ろにさがり始める。その足を、前に進むときにできた、彼女の足跡にしっかりと踏み合わせて退く。
 その状態で彼女は森の中まで戻り、そこから彼女は残された力を振り絞り、驚異的な脚力で、主人を乗せたまま遠く離れた藪の中へと跳びこむ。そこからさらに、藪の奥へと這うように入り、藪の背丈が彼女をすっかりと覆い隠せるところまで来ると、主人を丁寧におろした。雨のおかげで少しだけ息が整った主人の体に、その雨と追手から守るために覆いかぶさる。ここまでしてもあの人ならきっと見つけてくれる。主人と主人の妹と同じ匂いのした彼女なら、主人を必ず助けてくれる。
 安心し目を閉じた彼女の顔は、まるで天女の微笑のようであった。

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