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「命に別状はないらしいの。でも自力で歩くことは難しいかもって」

「え?」

「片足が動きづらいの。この先ずっと車椅子での生活になるかも……」

ショックで言葉が出なかった。父が自分の足で歩くことができなくなる。突然突きつけられた現実は重かった。

「リハビリとかすれば治るんじゃ?」

「多少足の感覚は戻るらしいの。でも完全に自分の足だけで歩くのは難しいって……杖を使うか車椅子での生活だって」

「そんな……」

それは父だけでなく、母や私の生活も変えてしまう事態だ。

しばらく母と病室のイスに黙って座っていた。父がこうなってしまってはこの先の生活を考え直さなければいけなくなる。私の転職は保留だ。もしくはこのまま今の会社に勤め続けなければいけないかもしれない。父の仕事はどうなるのだろう。母はこのまま専業主婦でいいのだろうか。考えれば考えるほど何もかもが不安だった。

「お父さんはどうしてあそこにいたの?」

父の顔を見つめ続ける母に問いかけた。けれど答えは聞かなくてもわかっていた。

「お母さんの予想では実弥の会社に行こうとしていたと思う」

「私もそう思うよ」

私は父のコネで就職した。早峰の幹部には父の学生時代の友人がいる。その人に会いにきたのだろう。

「どうせ私を辞めさせる話でもしに来たんでしょ」

そうして坂崎さんとの結婚話を裏で着々と進めようとしていた。母もそうじゃないかと思っている。

「きっと実弥の会社の近くのパーキングに車を止めて、歩いているところで轢かれたのかな」

それは自業自得ではないか、と父に同情する気持ちが失せた。事故を起こした運転手が悪いけれど、父があそこにいなければ大怪我なんてしなかったのに。

「本当に、バカねお父さんは……」

母が呟いた。

「何でも実弥のため、実弥のためって。それで怪我までしちゃうなんて大バカよね」

「お母さん?」

母は穏やかな顔をして父を見つめている。

「お父さんの会社ね、実弥が産まれる前には倒産の危機だったの」

「そうなの?」

父の会社は業界では名が知れている。会社を興したのは祖父だけれど、その祖父が亡くなったときに叔父が社長になったとは聞いていた。

「先代が突然亡くなったとき、先代への信用でもっていた会社は業績が大きく傾いたの。お義兄さんもお父さんも相当苦労して立て直したのよ。お母さんもそのときは実弥がお腹にいても仕事を掛け持ちしてね」

「初めて聞いた……」

「あの頃のお父さんは思ったの。この先お母さんや産まれてくる実弥に絶対に苦労はさせないって。だから実弥の人生にあれこれ口を出すのよね」

「………」

父の思いはわかった。けれど助言全てを受け入れなければ生きていけないわけではない。父が思うよりも私はもう子供じゃない。

「お母さんもお父さんの苦労を見てきたから、実弥にうるさく言うお父さんを止めることは少なかったの。坂崎さんとの結婚も」

「そのことだけど、私は……」

「わかってる。この間連れてきた警察官の方とお付き合いしてるのよね」

「うん」

「坂崎さんも悪い人ではないと思う。お父さんの気持ちもわかるけれど、お母さんは実弥の選んだ人との人生を応援するわ」

「ありがとう……」

「ごめんなさいね。今まで実弥を応援してあげられなかった」

母は悲しそうな顔で私を見た。
何度母に味方になってほしいと思っただろう。進路に就職に結婚に。でももう母に対する思い全てがどうでもよくなった。

「実弥は一旦帰りなさい」

「でも……」

「病院にはお母さんがいるから。実弥は仕事があるんだから今日はもう休みなさい」

気がつけば病室の窓から見える空は薄暗い。知らせを聞いて駆けつけてから数時間ここにいたことになる。

「わかった。何かあったら連絡してね」

母にそう言って病院を出てから会社の近くに戻った。
父が事故に遭った交差点はもう何事もなかったかのように車も人も行き来していた。
もしかしたらと見に行ったパーキングには予想通り父の運転していた車が停められていた。父の荷物から車のカギを回収しておいてよかった。このまま止めておくこともできないので仕方なく運転して帰った。私も久しぶりの運転だし、父の事故のあとだからより一層慎重に運転した。

家に着く頃にはすっかり暗くなり、誰もいないリビングで電気もつけずに再び考え込んでしまった。
突然スマートフォンの鳴る音が部屋に響き、驚いて体がびくりと震えた。画面にはシバケンからの着信だと表示が出ている。暗い部屋でスマートフォンの画面だけが眩しく光った。
心細かった私は勢いよくスマートフォンを取った。

「今大丈夫?」

「うん……」

穏やかな声に思わず目頭が熱くなる。

「お父さんは大丈夫?」

「どうして知ってるの?」

「事故の通報があって最初に現場に到着したの俺と高木だったから」

「そうなんだ……」

改めて思い直せば古明橋で事故があればシバケンが知らないはずがない。110番通報があれば駆けつけるのはシバケンなのだ。気がつかなかっただけで事故現場にいた数人の警察官の中にシバケンもいたのだろう。

「命に別状はないって。今は眠っててお母さんが付き添ってるの」

「そう。安心した」

私を気遣ってくれるシバケンに父はもう自分の足で歩けないかもしれないとは言えない。私自身がまだその事実を受け入れられないのに、言葉にしてしまうのが怖かった。

「お父さんね、私の会社に来ようとしてたの。私に会社を辞めさせようと思って」

事実かどうかはわからないのに私は父が古明橋にいた理由を決め付けている。

「自業自得だよね。それで轢かれるんだもん」

父は選択を間違ったのだ。あのときあそこに来なければ、今私はこんなに絶望していない。まるで全て父が悪いかのように被害者である父を責めた。

「それは違うよ」

シバケンはきっぱりと言い切った。

「お父さんは大怪我をした。けれどその場では何も悪いことはしてないよ。ただ歩いていただけなんだ」

静かな言葉に恥ずかしさがこみ上げる。今も病室で眠る父を責める自分が恥ずかしい。

「確かにお父さんは実弥に酷いことをしようとしていたかもしれない。でも被害者は何も悪くない。事故を起こした運転手が一番悪いんだ。スマホを見ながらの運転は危険行為なんだから」

「うん……そうだね……」

涙が溢れ声が震えた。

「悔しいね。不安だよね」

「うっ……」

嗚咽で言葉にならない。父の容体が不安で堪らない。この先の生活が不安で押しつぶされそう。怪我をさせた運転手が憎い。優しい言葉をかけてくれるシバケンが愛しい。様々な感情が巡って涙が止まらない。

「会いたいよぉ……」

気持ちが口から出てしまった。今シバケンに会って抱きしめてもらいたい。

「……俺も。実弥に会いたい」

この言葉を最後に会話が途切れた。私が落ち着くのを待ってくれているようだ。

「実弥ごめん、もう切らなきゃ」

「え?」

「まだ仕事中なんだ。今ちょっと抜け出して電話してるとこ。お父さんが心配だったから」

「そうだったんだ。ごめんね、ありがとう。私は大丈夫だから」

もう少しシバケンの声を聞いていたい。けれどその気持ちを言うことはできない。仕事中のシバケンを必要とする人は私以外にも大勢いる。

「明日会いたい。非番でしょ?」

「ごめん、当直明けでも仕事なんだ。古明祭りの警備がある」

「ああ、そうか……」

毎年古明祭りは大規模だ。当然警察官は警備に当たる。

「それに今年は警備を増やすことになってるから、俺も絶対に休めないしね」

「そうだね。通り魔がいるんじゃね……」

あれだけ世間を騒がせた通り魔はまだ捕まっていない。そのせいで今年の古明祭りは中止にしようとの意見もあったようだけれど、歴史ある祭りを中止にはしたくないという地元住民の意見の方が圧倒的に多かった。周辺の住民や企業で何度も話し合いをした結果、今年も通常通り開催しようということになったそうだ。シバケンを始めとした警察官はいつも以上に警備が大変だ。余計な話題がついて訪れる人が増えることも予想されていた。

「実弥はお祭り来るの?」

「わからない。毎年レストラン事業部の手伝いで出勤するけど、今年はいいって言われてるし、お父さんがこんなんだから」

「そうだよね。人が多いし大丈夫だと思うけど、もし出勤するなら絶対に一人にならないように気をつけて」

「うん。わかってる」

一人になるなと言うシバケンがおかしい。人が多すぎて疲れてしまうお祭りでは、一人になる方が難しいのに。

「また連絡する。実弥も遠慮なく何でも言って」

「うん。ありがとう」

電話を切るとシバケンと話す前よりも心が軽くなった。こんなことで楽になるなんて、私はなんて単純なんだろう。それだけシバケンの存在が大きいということかもしれない。やっぱり私は彼がいないとだめみたいだ。

お風呂に入り、眠気がくる頃には父が目を覚ましたと母から連絡があった。意識ははっきりしていて脳に異常はないらしい。まずは一安心だ。



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