2
「なにも……何もされてない」
「手だけ?」
「そう……」
私の手を握って顔の前に上げると指にキスをした。
「シバケン? どうしたの?」
「浄化」
「何それ……」
昨日坂崎さんに捕まれた手の記憶はシバケンのキスで上書きされる。シバケンはうっとりするほど色っぽい顔をして人差し指の腹に優しくキスをし、付け根から指先までゆっくり舌を這わす。
「くすぐったいよ……」
ゾクゾクして足に力が入らない。シバケンの腕が腰に回り体を支えられた。
私の手を優しく解放するとブラウスのボタンを外されていく。腰を抱えられながら鎖骨にキスをされて声が漏れる。
「シバケン……嫉妬してる?」
もしかしなくても、この人は怒っているのではないだろうか。
「してるよ。実弥が触られてて気分がいいわけない」
首筋を強く吸われた。
「んっ……ごめんなさっ」
最後まで言う前に唇を塞がれる。珍しく強引なシバケンに戸惑うばかりだ。
「まっ、待って……」
肩を優しく押すとシバケンはやっとキスをやめてくれた。
「ごめん……」
シバケンは真っ赤になった顔を隠すように私の肩に顔をうずめる。
「どうかしてた……」
「ごめんなさい……そうさせたのは私です……」
「あの人しつこいの? 俺が何とかしようか?」
「えっと……大丈夫。多分父が悪いんです」
父が結婚を勧めるから坂崎さんもあそこまでしつこいのだろう。坂崎さんもきっと今更引けないのかもしれない。
「大丈夫です。もう家を出るから」
「物件もう契約しちゃった?」
「まだだけど決めたから今度契約してくる。ここからも遠くないからすぐ会えるよ」
「だめ」
「え?」
「一人暮らしはだめ」
またしても怒ったような声だ。
「だめ……かな?」
「ここに住んで」
シバケンの唇が再び首に触れる。
「一緒に住も。ここが狭ければ他に引っ越す」
私の顔が赤くなるのを感じる。思ってもいない申し出だった。
「いいの?」
「うん。そばにいて」
嬉しいけれどそれでいいのかなとも思う。自立すると決めたのにシバケンに甘えるのはお互いのためになるのだろうかと。
私の様子にシバケンは不安そうな顔をする。
「嫌?」
「ううん、そうじゃないの。シバケンに甘えてもいいのかなって。世間知らずな自分が嫌だったから家を出るのに、逃げてるみたいで」
「逃げじゃないよ。将来のために一緒に住むんだから」
そう言いながらちゅっと音を立てて首にも肩にもキスをする。
「甘えてくれるなら嬉しいけど、実弥が気になるなら生活費は全部折半にしよう。そこから始めようか」
「はい……」
お返しにシバケンの耳にキスをした。
そうして顔を上げたシバケンの唇と私の唇が重なる。角度を変えて何度も合わさる唇が痺れてくる。いつまでも玄関でこうしているわけにもいかないので顔を離そうとシバケンの頬を触ると「いてっ」と小さく呻いた。絆創膏に触れてしまったようだ。
「あ、ごめん。痛いの?」
「傷できたばっかだからね」
「どうしたの?」
「昨日の当直で喧嘩を扱たんだけど、暴れてる人を抑えようとしたら顔を殴り掛かられて、避けたときにその人の指輪が掠った。ゴツイやつで距離を見誤った」
私は青ざめる。避けるのが遅ければ顔にパンチを受けていたのだ。前にも蹴られて肩を痛めたし、警察官は危険な仕事なのだと改めて思い直す。
「消毒したから大丈夫だよ。病院に行くほどでもないし」
何でもないことのように言うから私は背伸びをして頬の絆創膏にキスをした。
「実弥?」
「浄化です」
何だよそれ、とシバケンが笑うから私はもう一度頬にキスをした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
部長に退職願を出すことをついに決めた。シバケンと住むことにしたけれど父が決めた職場に居続けることはなく転職したいという気持ちは変わらない。
シバケンのお陰で自分を変えようと思えたのだ。彼と今後どうなろうとも自分自身の力で仕事をする。その決意だけは貫きたかった。
会議から戻った部長のデスクに近づいた。
「部長……」
「ああ黒井さ、古明祭りの食材発注の一覧をレストラン事業部サーバーからくれ」
「ああ、はい……わかりました」
話があったのはこちらなのに、逆に用件を言われてしまい自分のデスクに戻った。
明日は古明橋で古明祭りという大きなイベントが行われる。毎年早峰フーズからも屋台を出店している。主に飲食店担当社員の仕事だけれど、事務処理は私も関わりがあった。
頼まれた資料と共に退職願を持って再び部長のデスクまで行こうと立ち上がったとき、
「黒井さーん、3番に外線でーす」
「え、はい……外線?」
内線がくることは毎日だけど、社外から私宛に電話がかかってくることは滅多になかった。電話機は『外線』と表示されたランプが保留中であることを示している。
「どなたですか?」
「それが、黒井さんのお母様からです」
「え?」
母から会社に電話がかかってくるなんて驚いた。用事は個人携帯に連絡してくるはずなのに。
「すみません、ありがとうございます」
不思議に思いながらも受話器を取って外線の応答ボタンを押した。
「もしもし……」
「実弥? 仕事中にごめんね、携帯なかなか出ないから」
母の声はかなり慌てていた。今日に限ってスマートフォンをロッカーのカバンに入れたまま忘れていた。
「ごめん……何かあった?」
「それが、お父さんが事故に遭って」
「え!?」
「病院に搬送されたの。お母さんも今病院にいるの」
「ちょっと、どういうこと? 事故って!?」
周りの社員が私の声に驚いたのか様子を窺っている。
「車とぶつかったって……警察の人がそう言ってたんだけど、お母さんも気が動転して……」
「お父さん大怪我なの?」
「今処置をしてもらってる。でも意識がないの」
「とにかく私は仕事終わったらすぐ行くから、逐一連絡してね。スマホは常に持っておくから」
母との通話を終えて受話器を置くと「実弥ちゃん?」と向かいのデスクの丹羽さんが心配して声をかけてくれた。
「事故ってどうしたの?」
「あの……父が事故に遭ったそうで……」
「え!?」
「状況はまだよく分からないんですけど、母が今病院にいるそうです……」
「実弥ちゃんも行きな」
「でも……」
「黒井、早退しろ」
話を聞いていたのだろう部長がいつの間にか後ろに立っていた。
「そういうことなら急いで行け。こういう状況で帰さない鬼上司じゃないぞ俺は」
「は、はい、すみません!」
部長に頼まれた資料を渡した。直前で一緒に持っていた退職願を慌てて回収して、その白い封筒を見られないように思わず手で握り締めてしまった。不審な手の動きに部長は怪訝な顔をしたけれど、私は何事もなかったかのように荷物をまとめて「お先に失礼します」と言ってフロアを出た。
母に教えられた病院に向かうために駅前でタクシーを拾った。父が搬送された病院は古明総合病院だ。車ならここから10分とかからない。
タクシーの中でただ混乱していた。
どうして父が古明総合病院に運ばれるのだろう。父の会社は自宅の隣の市にある。そこなら大きな病院がいくつかある。仕事中であれば古明橋の病院に運ばれるなんてまず有り得ない。父が私の会社の近くにいなければ……。
タクシーが病院に向かう途中で停まったパトカーとすれ違った。数名の警察官が交通規制を行い、道路にはフロントが無残に破壊され電柱にめり込んでいる軽自動車があった。電柱は傾いている気がしなくもない。一目で大きな事故だとわかる。
その光景に胸騒ぎを覚える。この事故現場は早峰フーズから歩いて数分の距離だった。
病院に到着したことを母に連絡すると入り口まで迎えに来てくれた。
「どういうこと? 何があったの?」
病室まで案内されながら母に詰め寄った。
「お父さん、横断歩道を渡るときに信号無視してきた車に撥ねられたそうなの……」
「え!?」
衝撃的な説明に一気に怒りが湧きあがる。
「まさかひき逃げ?」
「ううん、車の運転手もお父さんを撥ねて電柱に衝突して……。その人は別の病院に行ったから状態はわからないんだけど、警察の方の話によると携帯を見ながら運転してたんじゃないかって」
「なにそれ……」
運転中に携帯を操作して人にぶつかるなんて呆れてしまう。
やはり来る前にタクシーの中から見た場所が事故現場だった。
「それでお父さんは?」
「ここよ」
母が指した病室に入ると、既に処置は終わっているのかベッドの上で父は眠っていた。個室の真っ白な部屋の中央で体にチューブを付けられた父は顔にもガーゼが当てられている。