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丹羽さんがつわりによる体調不良で欠勤した。いつも丹羽さんの旦那さんに駅まで送ってもらっていたから、奥様が休みなのに旦那さんに乗せてもらうことは躊躇われた。
旦那さんは社内の花形部署である営業推進部に所属している。内線で送ると言ってくれたけれど丁寧にお断りした。丹羽さんがいるときならまだいいのだけれど、忙しい営業推進部の仕事があるのに申し訳ない。
幸い定時で上がれるのだから人通りの多い時間に帰れる。
会社から出て少し歩くと前から歩いてくる人物に息を呑んだ。
「実弥さん、こんばんは」
「………」
「定時で終わると聞いていたのでお迎えに来ました」
坂崎さんが目の前に立って言葉を失った。
まさか本当に来るとは思わなかった。一人で会社を出たことが悔やまれる。
「連絡先を交換してください。今はタイミングよく会えましたが行違うこともあるかもしれませんし」
「け、結構です……坂崎さんに連絡することはないので……」
私の言葉に坂崎さんは微笑む。その顔は決してやさしいとは言えない、何かを企むような笑顔だ。
「僕は実弥さんのことをもっと知っていきたいので。いつでも連絡を取りたいのです」
笑顔と反対に私の顔は引きつる。
どうやって坂崎さんから逃げよう。パンプスで走ってもすぐに追いつかれるだろう。ここで大声を上げるのもかなり勇気が要る。
すぐ横の6車線の道路の反対側をパトカーが走り抜けて行った。あのパトカーに助けてもらいたかった。傍から見れば私と坂崎さんの様子には何も違和感がない。そんな便利屋みたいなことを頼むなんて無理だし、もう行ってしまった。
無理でも……私は変わるって決めたのだ。
「もう坂崎さんとは会いません。父には私から言います。だからこれを最後にもう会いに来ないでください」
頭を下げた。お願いだから坂崎さんも私なんかを相手にしないでほしい。
「ふっ」
坂崎さんの笑う息に顔を上げた。
「違うでしょ」
坂崎さんはいつかと同じようにスッと私の耳元に顔を寄せた。
「実弥さんは逆らえないんですよ」
低い声にぞっとする。
「何度でも言います。僕と結婚することは決まってるんですよ」
「私は自分の恋人は自分で選びます」
負けじと坂崎さんの耳元で囁いた。
「店を予約してあります。行きましょう」
「いいえ、遠慮します。一人で帰れますから」
顔を寄せて話し合う私たちはきっと周りからカップルだと思われるのだろう。でもこれは甘い会話じゃない。
「失礼します」
坂崎さんの横を抜けてパトカーが走っていった方向に早足で歩きだす。
「実弥さん」
坂崎さんは私の名を呼びながらついてくる。
「店はその先です」
坂崎さんは都合のいいように解釈している。つくづく恐ろしい人だと思う。父は本当にこの人と私を結婚させる気なのか。
「あ……」
先ほど通り過ぎて行ったパトカーがコンビニの前に止まっているのを見て足を止めた。6車線の道路を挟んだ向こうのコンビニに人が集まっている。1台のパトカーと二人の警察官に視線を向けた。それはシバケンと高木さんであるのが遠くからでもわかるほどはっきり見えた。
ではさっきシバケンが横を通ったのだ。嬉しいのと同時に後ろめたさを感じる。坂崎さんと居るところを見られたかもしれない。気づかれていないとしても早く移動しなければ。
「何かトラブルでしょうか」
坂崎さんが道路の向こうを見ながら言った。
「あんな光景は僕たちには縁のないものです。行きましょう」
冷たく言うといきなり私の手を掴んだ。
「ちょっと!」
抗議をして振りほどこうとしたけれど坂崎さんの手は私の指に絡んだ。
「放してください。声を上げますよ。今は都合が悪いんじゃないですか?」
道路の向こうには警察がいる。大声を出せば聞こえるだろう。
「実弥さんにそれができれば、ですけど」
「え?」
「こんなところを彼に見られたらどう思うでしょう」
驚いて目を見開いた。坂崎さんはシバケンの存在を知っている。彼がコンビニの前にいる警察官だと分かっていて私の手を放さない。
「どうして……知っているんですか?」
「実弥さんのことなら何でも知ってます」
冷たい笑顔を私に向けてから道路の向こうを見た。
「今の僕たちを見て彼はどうするでしょうね。ここまで飛んでくるでしょうか? それとも無視して仕事を優先するか、どう思います?」
怒りと焦りと混乱で目が潤んできた。寒くもないのに体が震え歯がカタカタとかち合う。
「彼は……私がここに居ても来ません……」
私の存在を認識しても目の前の仕事を放り出して個人的なことを優先したりはしない。そんな人であってほしい。だからこの状況は私自身で何とかしなくては。
「放してください。お互いに冷静になって、ここから離れましょう」
「では食事に行きますか?」
「行きません」
「行くと言ってくれるまで僕は実弥さんと手をつないだまま動くつもりはありませんよ。毎回逃げられるので今回は逃がしません」
向かい合い私の進路を妨害する。絡んだ指の上から坂崎さんの別の手が包む。
この人は強情で怖い。このまま逆らい続けると何をされるかわからずに身がすくむ。でも食事になんていけない。
視界にタクシーが入った瞬間思いっきり坂崎さんの手を振り払った。道路に近寄り手を上げるとタクシーは私の目の前に止まる。
「実弥さん」
坂崎さんは少しも焦る様子もなく私を止めようともしない。
「お父さんに逆らえますか?」
「出してください!」
運転手に焦って言葉を投げかけるとドアを勢いよく閉めた。
窓から見た坂崎さんは馬鹿にするような視線を投げかけていた。堪らずに視線を逸らしコンビニの方を見るとシバケンと目が合った気がした。遠くて本当に見つめ合ったのかわからないけれど、私は後ろめたくて目を逸らしてしまった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
『今日会える?』
デスクに座ってシバケンからのLINEのメッセージを画面を食い入るように見つめた。
嬉しい。非番のシバケンと会える。
仕事終わったらすぐに行くと伝えて書類の処理に精を出す。
一人暮らし用の物件を決めたし、引っ越してから転職しようと覚悟が決まった。
定時で退社し足取りも軽くシバケンの家に向かう。寝ているかもしれないと思ったけれど、チャイムを押すとシバケンはすぐに出てきた。その左頬に絆創膏が貼られている。
「ほっぺ、どうしたの?」
「ああこれは、昨日ちょっとね」
そう言うと中に入るよう促した。玄関で靴を脱ぐと急に抱きしめられた。
「シバケン?」
耳や髪にキスをするシバケンに驚く。
「どうしたの?」
「昨日、あの人と居ただろ」
あの人と言われてハッとする。やはり坂崎さんと居るところをシバケンに見られたのかもしれない。
「あれは違うの! 無理矢理手を掴まれて!」
「知ってるよ。見てたから」
唇が耳から首に、そして私の唇へと徐々に移動する。
「他には?」
「え?」
「何されたの?」
シバケンの手がコートを脱がして私の体中を撫で回す。
「ちょと……シバケン……くすぐったい」
「他は? 何をされたの?」
「んっ」
怒っているような声音と、服の上から胸に触られて体が反応する。