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総務課の社員が出先から徐々にフロアに戻り始めたお昼過ぎのことだった。
「また古明橋駅の近くで通り魔が出たらしいです!」
「え?」
フロアの社員が一斉に入り口の課長を見つめた。出先から戻った課長はコートも脱がずに慌ててパソコンの前に立ちキーボードを乱暴に打つと、ネットでニュース映像を映した。尋常じゃないその様子に何人かの社員は課長のデスクに集まった。課長に釣られてあっちこっちのデスクでニュース映像を再生する音が聞こえる。
私も検索サイトで『古明橋 通り魔』のワードを打ち込み検索すると、つい数十分前の事件が何件もヒットする。クリックした一件のニュースに耳を傾けた。
『今日午後1時半頃、中央区古明橋駅近くの路上で四十代の会社員の男性が後ろから来た男に腕を切りつけられました。切りつけた男は逃走しました。会社員の男性は軽傷です。警察は先日の事件と同一犯による犯行とみて、逃げた男の行方を追っています。』
短い速報だけでも事の重大さを語るには十分だった。古明橋に以前にも通り魔が出没したのは記憶に新しい。
背中から寒気を感じた。両腕で自分の体を抱くとブラウスの袖から覗く手首に鳥肌が立っていた。再び古明橋に出没して、まだ捕まらず逃走を続ける通り魔。白昼堂々と犯行に及んでいる大胆さが怖い。
次に狙われるのは私かもしれない。
そう思わずにはいられない。古明橋に勤めているのだから被害に遭う確率は高い。すれ違う誰かに突然刺されるかもしれないのだ。腕の力が自然と強くなり、恐怖で顔が歪んだ。
けれどそれは私だけではなかった。課長のデスクでパソコンを見つめる丹羽さんは不安そうな顔をしていたし、女性社員どころか男性社員も絶句していた。前回の被害者は女性と男性、そして今回も男性だ。被害に遭うのは無差別なのだろう。自分だけは大丈夫だなんて思えない。
「警察……もちろん古明橋を見回りしてくれるよね?」
誰かが呟いた言葉にシバケンの顔が浮かんだ。彼はパトカーに乗っているのだ。こんな事件の後だからこそ、パトカーを街で走らせるだけでかなりの防犯効果になるはず。
今頃シバケンは忙しくしていることだろう。
どうか早く捕まえて。そしてシバケンもケガなんてしませんように。
社内メールで複数人で退社すること、残業を極力控えて大通りを歩くこと。
そう通達があったのは定時の1時間前だった。古明橋周辺の企業や店舗、住宅に警戒してほしいと警察官が直に伝え歩いているようだ。
同時に通り魔の男が写った防犯カメラの写真がビラとして公開され、走って逃走する映像が報道番組にも流れた。
身長170センチメートル前後で中肉中背。20代後半から40代前半ということ以外わからない大雑把な目撃情報があっても、写真や映像に映る男の顔は不鮮明だった。
「すれ違う男の人はみんな怪しく思える。本当の通り魔が目の前に来られても咄嗟に動けないわ」
丹羽さんの言葉に同調する。
女性だけで歩くのは不安だからと課長にもお願いして、三人で駅まで歩きながらも視線を四方八方に泳がせる。会社から駅までの大通りを歩く間にパトカーを2台見た。もしかしたらシバケンが乗っていたかもしれないけれど、そうとわかるような合図などは何もなかった。真面目な彼のことだ、仕事中なのにわざわざ私に声をかけることはないかもしれない。
それから数日間、報道番組などでは古明橋の防犯カメラで逃げる通り魔の男の映像が公開され続けた。目撃者の話を元にした似顔絵が作成されても犯人が捕まることはない。駅の改札前には警察官が毎日配置され、駅周辺以外にもパトカーが多く走っている。
毎朝丹羽さんと駅で待ち合わせ、同じ会社の旦那さんの車で一緒に会社まで乗せてもらうことになった。
「安心して仕事もできないよねー」
後部座席で私の横に座った丹羽さんは、ふくらみが目立つお腹をさすりながら不安そうに窓の外を見た。
「警察がきちんと捜査してくれるから大丈夫ですよ」
大掛かりな捜査体制で毎日忙しいシバケンとはろくに電話もできないでいた。そんなシバケンにケガをしないようにと願うのが精一杯だ。いくら訓練しているといっても、刃物を持った犯人を相手にしたら無傷でいるのは難しいかもしれないのだから。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
不動産会社でアパートの間取りと敷金礼金の一覧が書かれたコピー用紙を数枚持って、優菜との待ち合わせの洋食屋に入った。席に案内されると先に店に入っていた優菜は既にワインを飲んでいた。
「みーやぁー……」
私を見ると涙目になり甘えた声を出した。
「なに、どうしたの?」
いつもと違う様子に驚きながら優菜と同じワインとコースを注文した。
「異動なんて嫌だよぉ……」
「ああ、それね」
先日辞令が出て優菜は副店長の任を解かれ、他の店舗への異動命令が出た。
「辞めたいって言ってたじゃない」
「そうなんだけど、店が変わるのは嫌なのぉ。通勤面倒だしぃ」
今にも涙がこぼれそうな優菜は異動が心底嫌そうだ。
「熊田さんから離れられてよかったじゃん」
「熊田はキモイけどそれを差し引いても異動はいやぁ」
居酒屋でもないのに優菜は酔っている。私が来るまでにどれだけ飲んだのだろう。
「もう寿退社したい」
「相手がいないでしょ」
「……公務員とか」
「はい?」
「公務員と結婚する!」
いきなりの宣言に面食らった。
「高木さんのこと?」
優菜がお付き合いしそうな可能性がある男の人といえば高木さんしか思いつかない。高木さんはわかりやすいほど優菜に気がある。
「……付き合ってほしいって言われてるの」
「ならいいじゃない。連絡も取り合ってるんでしょ?」
「うん……今は忙しそうだけどね」
シバケンが忙しいのなら、コンビを組む高木さんも同じく忙しいだろう。
高木さんが優菜をすごく大切に想っていることはシバケンから聞いていた。優菜が少しでも高木さんを気に入ったのなら付き合えばいいと思っている。
「でもさ、高木さんイメージと違うんだもん。警察官ってもっと真面目なイメージだったの。高木さんは軽いんだよノリが」
「まあ……それは……」
否定はできない。高木さんは職業イメージを差し引いても真面目とは縁がなさそうだ。
「柴田さんみたいだったら良かったのに」
シバケンの名前を出されてどきりとする。
「柴田さん優しそうだし、ザ、警察官って感じだよね」
「あはは、そうだね」
シバケンを褒められて嬉しい。確かにシバケンは真面目な人だ。
「高木さんは悪い人じゃないんだけど……お付き合いしたらこの年じゃ結婚だって考えるじゃん? そういうの考えちゃうと直感と勢いよりも私との相性優先で考えちゃうよ……」
「まあその気持ちはわかるよ」
高木さんのノリは物事を慎重に考えて思い詰める性格の優菜とは合わないかもしれない。
「実弥は柴田さんと順調?」
「ああ、うん」
優菜にシバケンが家に挨拶に来たこと、坂崎さんとのことを話した。
「箱入り娘も大変だね」
「箱入りって……」
「でも羨ましいな……家族と一緒に生活して」
優菜は大学進学と同時に一人暮らしをしていて実家が恋しいようだ。
「家を出ちゃうのも、私からするともったいない話だよ」
優菜の言葉に反論したくなるのを抑えた。家族の問題は人それぞれ価値観がある。私の父に対する感情を優菜にぶつけて暗い気持ちを共有したくはなかった。
「もう私も自立しないと」
そう言って不動産会社からもらってきたアパートの間取り図を優菜に見せた。