9
父はシバケンを睨みつけ冷たく言い放った。
「地方公務員の下っ端ごときでは大事な娘は相応しくない」
「お父さん!」
あまりの態度に私も大声を出した。
「失礼なこと言わないで!」
怒りで肩が震える。シバケンをバカにすることは親といえども許せることではない。
「話を聞いて!」
「実弥とは別れてください」
目を見開いて固まる私を無視して父とシバケンは視線を合わせた。
「実弥は私の会社の部下と結婚させるつもりです」
「そんなの嫌! 勝手に決めないで!」
あまりの勝手さに声まで震えた。坂崎さんと結婚なんて絶対に嫌だ。本当に父は私の結婚相手まで決めようとしていることが腹立たしく悲しかった。
「実弥には将来有望な男と結婚して幸せな暮らしをしてもらいたい」
「坂崎さんと結婚しても全然幸せになれない!」
「お前は黙りなさい!!」
父の怒鳴り声に怯んだけれど、すぐに怒りで全身に鳥肌が立った。
「っ……」
言い返そうと大きく息を吸ったとき、私の肩に温かい感触がした。見るとシバケンが肩に手を載せぽんぽんと優しく叩いた。その顔はいつも私に見せてくれる穏やかで優しい顔だった。
怒りが治まるのを感じた。肩の力が抜けてシバケンに抱きつきたいとさえ思った。そのシバケンは私の肩に置いた手を下ろすと再び父に向き合った。
「僕も将来有望な男ですよ」
その意外な言葉に私だけではなく父も彼の顔を凝視した。
「実弥さんに良い暮らしをさせてあげられるくらいには出世するつもりです」
ふんっと父が鼻で笑った。
「巡査部長がでかい口をきいたもんだ」
バカにした言い方に反論しようと口を開きかけたとき、またしてもシバケンが私の前に手を上げて制した。
「実弥さんのために可能な限り出世したいと思っています」
きっぱりと言い切ったシバケンの瞳は揺らがない。
「認めていただけるまで努力し続けます」
それに対し父は冷たい視線を外すことはない。
「お引き取りください。しつこいと警察を呼びますよ。そんなことになったら君は困るだろ?」
「いい加減にして!」
父に怒鳴るのはもう何度目だろう。警察官のシバケンに向かって通報すると脅すなんてふざけている。人を見下す父にはもううんざりだ。
「行こう!」
私はシバケンの腕を強引に引いて玄関に向かった。
「実弥……」
母の不安そうな声だって当然無視をした。リビングを出る直前にシバケンは父に向かって「お邪魔しました」と律儀に挨拶をした。
シバケンが玄関で靴を履く間にドアを開けると外は相変わらず雨が降っていた。
「急にお邪魔して申し訳ありませんでした」
母に詫びるシバケンは穏やかな顔をしている。
「こちらこそすみません……」
「もう行こう」
傘を開き、母に挨拶をしているシバケンを急かした。これ以上我が家の親子関係を見せられない。外面しか見ない父が恥ずかしい。父の顔色を窺う母が情けない。憤慨する私を見せて呆れられたくない。
シバケンが濡れないように傘を傾けて中に入れると車まで並んで歩いた。
「ごめんなさい……」
「なんで謝るの?」
「だって、父が酷いことを言ったから……」
「大事な娘の彼氏のステータスを気にするのは親として当然だよ」
そう言ってシバケンは苦笑いした。
「まあ、想像以上に厳しいお父さんだったけどね」
「本当にごめんなさい……」
シバケンは立派な仕事をしている。学歴や役職なんてどうでもいい。そんなことで評価しないでほしい。
助手席に乗り込もうと車の前に立ったとき「ここでいいよ」とシバケンは傘から出た。
「え? シバケンだけ帰るの?」
驚いて傘を傾けると顔に雨が当たる。シバケンを濡らさないように再び傘の中に入れた。このまま一緒に車に乗って行くものだと思っていた。シバケンの家にとは言わないけれど、この場から離れたかった。
「実弥はこのまま家に戻りな」
「……嫌だ。もう家にはいたくない」
まるで子供のようだと自分でも呆れてしまう。けれどその理由もシバケンに察してほしいのに。
「お父さんに認めてほしいから今は家に戻るんだ。不誠実なことはできないから」
はっと息を呑んだ。私を見るシバケンの目からは意志の強さを感じる。
「実弥を大事にして、真剣だってわかってもらいたい。可能な限り階級を上げて認めてもらえるように努力する。キャリアじゃないから出世するにも限界はあるけど」
「シバケン……」
嬉しかった。それほどちゃんと考えてくれていたなんて。
「お父さんに言ったことは本心だよ」
どういうこと? と首を傾げる私にシバケンは照れたように首に手を回して撫でつける。
「実弥に不自由な生活をさせないから」
この言葉に今度は私が笑う番だった。
「あはは、まるで結婚するみたいな言い方ですね」
そんな冗談は照れると笑うと、見返す真顔のシバケンに圧倒され笑顔を作ったまま固まった。
「考えてるよ」
「え……」
「結婚、考えてるよ。そうなったらいいなって。俺の家で言ったでしょ、二人の未来を考えてるからって」
ぽかんと口を開け間抜けな顔をしている自覚はあった。けれどシバケンの言葉を飲み込めず、口を閉じることすら簡単にはいかない。
「専業主婦になってもいいし、仕事を続けたければ続けていい。子供は二人できたら嬉しいなと思う。年に1回は旅行に行って、郊外に庭付き一戸建ての家に住んで、大型犬を飼う。そんで庭で犬と遊ぶ子供たちを眺める休日。どう?」
「どうって……」
「そんな平凡だけどのんびりした生活をさせてあげられるくらいには出世します」
「はあ……」
「はあって……反応が薄いな」
「シバケン酔ってる?」
「酔ってないって。真剣だから」
シバケンは困ったように引きつった顔で薄っすら笑う。自嘲するかのように。
「だめかな? こんなんじゃ実弥に満足してもらえるような生活じゃないかな?」
「……してみたいです」
「え?」
うつむく私にシバケンは聞き返す。
「そんな生活してみたいです……」
雨音に掻き消されそうなくらいの小さな声だ。けれどシバケンには聞こえたようで、うつむく私の頭に手を載せて優しく撫でた。
「じゃあ俺は精一杯頑張ります」
頭の上から穏やかな声が降ってくる。
夢や目標もなくやりがいも感じなかった私の日々の生活に、シバケンという希望が生まれる。父に従って生きてきた人生を後悔していた。だから今度こそ自分で選びたい。この人とならこの先の人生は穏やかで楽しくて幸せだろう。
潤んだ目から落ちた雫は雨と一緒に地面に落ちて溶けた。顔を上げシバケンと見つめ合う。
「一緒に頑張ろうね」
「はい」
シバケンの顔が近づき頭を撫でていた手が私の腰に回る。もう何度目かわからないキスをまた交わし、ゆっくりと名残惜しむように唇を離した。
「あ、でも中型犬がいいです」
「ん?」
「犬は柴犬を飼ってみたいです」
この言葉に二人同時に笑った。
シバケンの車を見送り家の中に戻った。相変わらずリビングでニュースを見ている父の背中は何事もなかったようにリラックスしていて腹立たしい。けれど以前ほど怒りをいつまでも留めることはなくなった。私の人生は確実に前に進んでいる。そろそろ親離れをしなくてはいけない。そう感じていた。