十三話 乙霧
幻之丞はすぐに小太郎に視線を戻した。
「一夜の忍びとして、半人前ではございますが、頭の冴えは例え比べる相手を天下に求めたとしても、どなたにもひけをとりますまい。一から十を知り、十から百の策を練る。我が里では少々持て余すような娘でございます」
「この娘がか……」
小太郎は
美しい。
もうこの感想を抱くのも飽き飽きしてきたが、それでもやはり美しいものは美しいのだ。しかも他の一夜の者にはない得体のしれなさを小太郎は感じている。若い女であるから、なおさらそう感じるのかもしれない。
しかし、それでもなお幻之丞の物言いはかなり大げさであろうとは思う。こんな山奥の隠里に、そんな知恵者が育つような環境があるとも思われない。
「お疑いのようですな。まあ、いたしかたございませんな。ですが、いま私どもが小太郎殿とできる取引は、これ以外にはございませぬ」
「……わかった。そのことはとりあえず置いておく。それよりもなぜ大殿の元に参上せずに、わしが来るのを待った」
「先程も申し上げましたが、北条の殿様にお売りするに値する情報はございませぬ。特定の主を持たぬは我らが誇り。北条の殿様に知恵者をお貸しいたすなどと申し上げれば、さればお主らが対処してみせよとなりましょう。矜持に反するばかりではなく、一族が存亡の危機を迎えるは必定。我らに戦働きで勝利をおさめるような力はございませぬ」
「それで直接対応することになったわしに売りつけるか……。ならばなぜ風魔の里に来なかったのだ。買うにしろ買わぬにしろ、わしがここに来ること自体二度手間ではないか!」
小太郎の声に怒気が含まれる。それもそうだろう。少しでも早く八犬士に対する手立てを手にするべく急いで来てみれば、小太郎が来ることを知っていたばかりか、小太郎の望む形ではないにしろ、力を貸すつもりであると言われたのだ。
一夜が風魔の里まで売りつけに来ていれば、小太郎は今頃八犬士への対応の指揮をとれていたのは明白である。
幻之丞は小太郎の怒りを鎮めようと、深々と頭を下げる。
「風魔の里に
幻之丞はそこで言葉を切り、後ろに佇む乙霧を振り返る。
「この者が、小太郎殿をこの里にお迎えすべきだと主張いたしまして」
小太郎は怒りのこもった視線を幻之丞から乙霧へと移す。
「娘、何故だ⁉」
「……じきにわかります」
乙霧が口角をわずかにあげそう答えると、上へと続く階段からドタドタと駆けおりてくる足音が響きわたる。
「お頭さま!」
「小太郎様!」
「「一大事にございます‼」」
ここまで小太郎を案内して来た二人の少年が、息せき切って地下の広間に駆け込んでそう告げる。
二人のただならぬ様子に、幻之丞は立ち上がり二人に声をかける。
「落ち着かぬか。余計な感情は情報を捻じ曲げる。小太郎殿にも関係あることなのだな。かまわぬ。そこで事実だけを申せ」
二人は一瞬だけ顔を見合わせ、すぐに幻之丞たちに向き直る。
「「はっ!」」
「風魔の里から」
「火の手が上げっているそうにございます」
「なんだと⁉」
小太郎は一声そう吠えると乙霧に喰ってかかる。
「娘! 貴様こうなることがわかっていて、わしをここまで招き入れたか!
返答によっては許さぬぞ!」
「まさか。絶対にそうなるだろうなどとは思っておりませんでした。こうなるであろうと、予測の一つとして持っていたにすぎませぬ」
乙霧は、今度ははっきりと笑ってそう言った。
小太郎の溜まりに溜まった怒りが頂点に達し、その怒りに身を任せ乙霧に駆け寄ろうとする。……が、すぐに踏みとどまる。
間に幻之丞が割って入ったからではない。冷静さを取り戻した訳でもない。
小太郎の中の本能と呼べるものが、小太郎の怒りを上回る強さで全身に警報を発したのだ。その娘にそれ以上近寄ってはならぬと……。
「ご安心くださいませ。大きな被害はでておらぬでしょう。八犬士の狙いは風魔の
挑発するような乙霧の言葉だったが、己の内からでた恐怖とも呼べる警報に戸惑う小太郎は、ただただ乙霧の言葉に聞き入った。
「小太郎様。私をお連れくださいませ。お代は後払い。小太郎様が、私が役にたったと感じられた時のみで結構にございますゆえ」
一族の頭領たる幻之丞をそっちのけで、小太郎との交渉を始める乙霧に、幻之丞は苦笑するが口は挟まない。
「わ、我らにはそれほどの蓄えはないぞ」
しぼり出すように発せられた小太郎の言葉に、乙霧はゆるゆると首を振る。
「一夜が……私が風魔に欲するは金銀などではございませぬ」
乙霧がこれまで以上に妖艶に微笑む。
「風魔衆からお一人。私の婿になる方をいただきとうございます」
小太郎は、自身のごくりという唾を飲みこむ音を、確かに聞いた。