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思わず叫んだ。私から視線を逸らし、タクシーを振り返ったシバケンの左肩に男性の足が勢いよくぶつかった。男性はそのまま背中から地面に落下して動かなくなり、蹴られたシバケンはよろめいて肩を右手で押さえながら地面に膝をついて呻いた。
「シバケン!!」
駆け寄ろうとする私にシバケンは手を前に突き出して『来るな』と無言で訴えた。私は足を止めた。シバケンは痛みで顔を歪めながらも、私の目を見て首を左右に振った。そんなことをされてはその場から動けない。感情に任せて行動しようとした自分が恥ずかしい。シバケンは蹴られるという予測できない事態になっても冷静だ。
他の二人の警察官が地面に倒れたままの酔った男性を介抱して、もう一人がうずくまるシバケンに駆け寄った。その焦った顔の警察官は、よく見ると居酒屋で出会った高木さんだった。シバケンと組んでパトカーに乗っているという彼は相方の様子を心配している。
今ここで私がシバケンのそばに行っても、彼らの仕事の邪魔をしてしまうだけだと気がついた。私のような一般人がこの状況では何かをできる訳がない。彼らの邪魔にならないようにただ見守ることしかできないのだ。
いつの間にか救急車が来て酔った男性を担架に乗せて行ってしまった。事情を聞くためにタクシー運転手と話す警察官もいれば、人混みで乱れたロータリーの交通整理をする警察官もいた。高木さんはパトカーの無線で何かを話していた。
そうしているうちにタクシー運転手は警察官に頭を下げるとタクシーに乗ってその場から去っていき、高木さんはパトカーの運転席に、シバケンは肩を庇いながら助手席に乗り込んだ。車内から離れた場所に立ち尽くす私を見たけれど、すぐに目を逸らして助手席のドアを閉めてしまった。パトカーは走り去り、徒歩の警察官もロータリーから離れて駅へ戻っていった。集まった人々もいつの間にか散って、いつも通りの駅前の喧騒が戻ってきた。
それでも私はその場を動けないでいた。目の前で起こった騒ぎに頭がついていかない。タクシー運転手と乗客の揉め事に対応する警察官、怪我をしてしまったシバケン。普通に生活していたらあまり見る機会なんてなかった。知っている人がトラブルに巻き込まれたら心配になってしまう。
シバケンは大丈夫だろうか。救急車に乗らずにパトカーで行ってしまったけれど、病院に行けるのだろうか。まさかこれからパトカーで病院に行くというのか。心配で堪らない。だって私がこの場にいなければシバケンは油断しないで酔っ払いの蹴りをかわせたかもしれなかったのに。
突然肩に衝撃を受けて体がよろけた。
「ごめんなさい!」
私とぶつかった学生らしき女の子が慌てて謝ったけれど、何の反応もできないでいる私に不審な顔を向けて友人の元に駆けて行った。それで我に返った私はようやくノロノロと駅に向かって足を動かした。
過去に酔っ払いから守ってくれたのに、酔って私を抱きしめたシバケンは今度は酔った男性を相手にしている。私にした行動が信じられないくらいに今夜仕事中の彼はかっこよかった。
どちらが本当のシバケンなんだろう。シバケンがわからない。だからもっとシバケンを知りたい。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
シバケンのことを考えてろくに眠ることもできないまま土曜の朝を迎えた。昨日負傷した彼のことが心配で、どうすれば状況が分かるのだろうとずっと考えていた。それにあの夜のことを有耶無耶にはしたくないと思うようになった。
でも連絡先を知らないし、警察署に直接問い合わせるなんてことをすればシバケンも困るだろうからしたくはない。
誰か警察に伝でもあればいいのだけれど……。
そうして心当たりを思いつくと、スマートフォンをタップして優菜に電話をかけた。
会社から近いとしても古明橋駅から歩いて10分ほどのところにある古明橋警察署を訪れるのは初めてのことだった。警察署自体に用があることなんて滅多になく、訪れるとしたら免許の更新の時だけだ。
警察署の入り口には常に警察官が立っているものだと思っていた私は、パトカーが1台も止まっていない駐車場と無人の入り口に怖気づいていた。
ここで待っていればシバケンに会えると教えてもらった。けれど正確な時間が分からず、数時間待っていなければいけないかもしれないし、もしかしたらシバケンは既に帰ってしまっていることも有り得た。
どうしようか迷って入り口で突っ立っているだけの私は警察署の前では目立っていた。自動ドアからはスーツを着た刑事らしき人が頻繁に出入りしていて、ウロウロしている私をじろじろと見ていく。警察署の前を通っただけの一般人も私を不審な目で見ていた。
駐車場に1台のパトカーが入ってきて止まった。すると入り口の自動ドアが開き、中からジャージ姿の男が警察官二人に両腕を掴まれながら出てきた。男は上下グレーのスウェットにゴム製のサンダルを履いて虚ろな目をして歩いている。左右の腕を掴む警察官も眉間にしわを寄せて緊張した面持ちだ。その異様な姿に私は思わず道をあけた。男は警察官に連れられパトカーに乗せられた。そのまま何事もなかったかのように駐車場から出てどこかに行ってしまった。
きっと何か罪を犯した人だったのかな。でも手錠をしてる感じじゃなかったし……。
自然と両肘を抱きこんだ。滅多に来ない場所で滅多に会わない人とすれ違い緊張がピークだ。
もう帰ろう。今日じゃなくてもシバケンに会う機会はこの先もきっとある。
警察署の入り口に背を向けて帰ろうとしたとき、
「実弥ちゃーん!」
背後から声がして振り返るとスーツを着た男性二人が自動ドアから出てくるところだった。
「ごめんね、待った?」
そう言って笑顔を見せる高木さんが軽く手を振りながら私のところへ向かってくる。その後ろで驚いた顔をしたシバケンが私を見ながらゆっくりと近づいてきた。
「本当はもうちょっと早く帰れたんだけど、柴田のこともあったから事務処理が遅れちゃって」
申し訳なさそうに謝る高木さんに私は首を振った。
「いいえ、こちらこそ変な連絡をしてすみませんでした」
「とんでもない。優菜ちゃんから連絡もらえて嬉しかったから」
高木さんはどんな用件であれ優菜から連絡をもらえたことが心から嬉しそうだ。
「高木、これどういうこと?」
シバケンは動揺したまま私と高木さんを交互に見た。
「じゃ、俺帰るから」
「は?」
状況を説明しないまま帰ると言い出す高木さんにシバケンは慌てた。
「お疲れー」
「ちょっ、待てって!」
高木さんはシバケンの声を無視して軽く手を上げながら駅の方へと歩いていった。
「えっと……」
シバケンは髪を掻きむしった。この状況にわかりやすく戸惑っているようだ。私だって緊張しているけれど思い切って口を開いた。
「高木さんにここにいたら柴田さんに会えるって教えてもらったんです」
「え?」
「この間居酒屋で私と一緒にいた優菜って子を覚えてますか?」
「ああ……覚えてます」
「優菜と高木さんが連絡先を交換していたんです」
あの日解散する直前に高木さんは優菜に強引に連絡先を聞いていた。
「優菜を経由して高木さんに今日警察署から出てくるって教えてもらったんです」
優菜は高木さんに連絡先を聞かれて迷惑そうにしていたけれど、今になってそれが役に立った。今朝出勤前の優菜に電話をかけ昨夜のことを話した。高木さんを軽いノリだから苦手だと言っていたけれど、私の必死の頼みで連絡を取ってくれたのだ。
「高木のアホ……」
シバケンは溜め息をついて呟いた。