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真顔でそんなことを言われ戸惑った。突然のことに腕でシバケンの肩を押そうとしたけれど、私の意図を察したのかシバケンの腕が私の腰に回った。離さないとでも言うように。
「柴田さん、放してください」
それでもシバケンは離れる様子がなく、それどころか顔を私の頭に寄せてくる。
「可愛すぎて無理」
「っ……」
何度も可愛いと言われ照れるどころか目が潤み始めた。拒否しても離れないシバケンに悲しみと怒りが一気に溢れる。私の大事な思い出を上書きしてしまうなんて最低だ。
「酔ってるだけですよね? 取り敢えず落ち着きましょう」
「ねえ…キスをしたら過去の実弥ちゃんも思い出すかもしれないよ」
この言葉に体が小さく震えた。
「ふざけないで……」
涙が頬を伝った。それでようやくシバケンは焦り始めた。
「実弥ちゃん?」
私の肩が震えだした。
「実弥ちゃん……あの……」
先程とは違い焦った顔をして私を気遣う。
「ごめんいきなり……やり過ぎたね」
「こんな人だと思わなかった……」
呟いた言葉に私の肩を抱いた腕がピクリと動いた。
「全然、違う……」
私が好きになったのはこんなシバケンじゃない。
「実弥ちゃん?」
「こんなの最低!」
肩を抱くシバケンの腕を振り払った。驚くシバケンにはもう目もくれず走り出した。後ろから「え? え?」と困惑する声が聞こえた。けれどもシバケンを一度も振り返ったりはしないで自宅までの道を全力で駆けた。
憧れの警察官に会えたのに。その憧れを壊したのは警察官本人だった。どうしようもない怒りと絶望が私の足をより早く動かした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
不本意な残業を終えて駅前を歩きながら私はイラついていた。
レストラン事業部の新規店舗開店に向けての書類のコピーが一気に私のところに回ってきた。事前書類と照らし合わせるだけで他の仕事が回らなくなる。経理課にいた頃にはわからなかった店舗のイメージがわかって面白いけれど、残業になるだけの量は負担だった。
何が花の金曜日だ。みんなさっさと家に帰ればいいのに。
飲食店の多い駅前は人でごった返し、真っ直ぐ歩きたいのに大学生らしき集団を避けて歩くのに精一杯だ。オフィス街である古明橋は近隣に大学や住宅街もあり、まだ21時とあって老若男女問わずに駅を利用する人は多い。
「ふざけんなコラァ!!」
地面を見ながら歩いていた私は怒鳴り声に顔を上げた。駅前ロータリーには車ではなく人が集まっていた。人垣の向こうからは絶えず怒鳴り声が聞こえている。
「何? イベント?」
「いや、ケンカっぽいよ」
近くにいたカップルの会話が聞こえた。
なんだ、ケンカだなんてくだらない。
「警察呼んだ方が良くない?」
そう言ったカップルの横を抜けて足を止めることなく駅まで歩く。揉め事の場面に遭遇したことはないけれど夜の繁華街ではよくあることだろう。疲れた私には見物しにいくほどの元気は残っていなかった。
駅構内の階段を上ろうとしたとき、上から二人の警察官が勢いよく下りてきて一瞬体が固まった。シバケンだったらどうしようと思考までも停止する。今シバケンに会ってもどんな顔をしていいのかわからない。だって酔っていたからといってもいきなり抱きしめられるなんて思わなかった。
あの出来事は強制わいせつ罪なんじゃないかな? しかも警察官がだよ?
こんなこと誰に相談すればいいのだろうと悩んでいる。数日たっても怒りとショックは治まらない。それほど私のシバケンへの想いは大きかったから。
けれど私の横を通ってそのままロータリーへ走っていった警察官は二人ともシバケンではなかった。ほっとした私は迷った末に警察官が走っていったロータリーに戻った。警察官への尊敬の気持ちを取り戻したくて、彼らの仕事を近くでもう一度見たいと思ったから。
ロータリーに集まる人の間を抜けて騒ぎの中心まで進むと1台のタクシーがあった。運転席と後部座席のドアが開いたまま不自然に停車し、そのタクシーの前でタクシー運転手の胸ぐらを掴んで怒鳴る男性を警察官二人が引き剥がそうとしているところだった。
うわぁ、本当にケンカだ……。
今にも人が殴られそうな状況を生で見たのは初めてだ。「何かの撮影?」と不思議がる声も聞こえてきたけれど、カメラもスタッフらしき人も見当たらない。これは正真正銘の揉め事だ。
胸ぐらを掴んでいる男性は私と変わらないくらいの年だが、酔っているのか呂律が回らず訳の分からない言葉を叫んでいる。タクシー運転手は年配だけれどこちらも負けず劣らず怒りで顔が赤くなっているのが夜でも分かった。
「落ち着いてください!」
警察官二人が強引に運転手と男性を引き離すと、酔った男性はフラフラと歩きタクシーの横まで行くとうずくまった。私からは男性がタクシーの車体で隠れて見えないけれど、距離が離れていても嫌な音が聞こえた。タクシーの向こうにいる人は男性を見て叫んだり、「嫌だ」と顔をしかめる人もいた。
「ほらな! この人車内でも吐いたんだよ。まだ営業があるのに汚されちゃたまんないよ!」
タクシー運転手は警察官に怒りを込めて訴えた。
「どうすんだよ……クリーニング代もらわないと困るんだよ……」
「あ!? クリーニング代だ!? ふざけんな! 払うわけねーだろ!」
酔った男性は運転手の言葉に立ち上がって再び掴みかかろうとした。
「やめなさい!」
警察官も再び二人がかりで暴れる男性の肩や腕を押さえた。
なるほど、それでケンカになったのか。まだ営業があるタクシーを汚されてしまっては運転手も困ってしまう。それなのに客は酔っ払いで話が通じない。怪我までさせられてしまいそうな勢いの乱暴さだ。
騒ぎをスマートフォンで撮影する人はいても、ドアが開いたままの汚れたタクシーの車内に視線を向ける者はいなかった。
サイレンの音がだんだん近づいてきて、1台のパトカーがロータリーの端で停まった。
「すみません、通してください!」
パトカーから降りてきた警察官二人が見物する人を掻き分けてケンカの中心に到着した。その内の一人の警察官を見て私は息を呑んだ。濃紺の制帽の下から見えた顔はシバケンだったのだ。私の前を通ったけれど、目の前の騒ぎに集中しているシバケンは私に気がつくことはなかった。
このままこの場を離れようと思う気持ちと、気づかれないのならまだ彼らの仕事を見たいという気持ちがせめぎ合ったまま動けなくなった。
警察官が増えたことに焦ったのか、暴れる男性は自分を押さえる警察官を振り払い、タクシーのボンネットに飛び乗った。
「見せもんじゃねーんだよ!!」
好奇の目を向ける見物人たちにボンネットの上に立って怒鳴り散らした。このままではタクシー運転手だけでなく、関係ない周りの人にも危害が及ぶかもしれない。
するとシバケンがタクシーの前に立った。危険な状況だと判断したのか、真剣な表情で近くにいる人に「離れてください」とタクシーとの距離をとるように大声を出した。そうして周りを見渡して私がいることに気がついた。シバケンの瞳が揺れたのが驚くほどはっきり分かった。彼も私を見て動揺している。私と彼はお互いに見つめ合って視線を逸らすことができなかった。
「お前らも邪魔だ!」
頭上からの怒鳴り声に我に返った私はボンネットの上の男性を見た。男性は周りを囲む警察官を焦点の合わない目付きで見下ろし、膝を曲げて跳躍の姿勢をとった。ボンネットの上で弾みをつけてシバケンめがけて飛んだ。
「シバケン危ない!!」