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「すみません、突然押しかけて……」
「いや……別に」
「肩は大丈夫ですか?」
「ああ……はい……」
「病院には行かれましたか?」
「行ってないですよ。痛みますけど腕動きますし、きっとただの打撲ですから」
そう言う割には先ほどから左腕を動かしていない。ビジネスバッグは右手で持って、左腕は上げることなく歩くのもどこかぎこちない。
「すみませんでした。私のせいで……」
シバケンに頭を下げた。
「ちょっと! 顔上げて!」
謝る私にシバケンは慌てたけれど「いてっ!」と小さく声を出して体の動きが止まった。やはり肩が痛むのだろう。酔った男性に相当な高さと勢いで蹴られたのだから。
「本当に大丈夫だから」
「でも……」
シバケンの表情は硬い。私の目を一切見ようとしない。きっと迷惑なのだ。私のせいで怪我をしたのに職場にまで来るなんて困るに決まっている。これではストーカーみたいじゃないか。
「迷惑ですよね……こんな風に突然来て……」
「そんなことないよ……」
「帰りますね。本当にすみませんでした」
帰ろうとする私をシバケンは引きとめようと腕を上げてまたしても「痛い」と呻いた。
「違うんだ。君に会うのが恥ずかしくて……」
「え?」
シバケンの言葉を聞き返した。
「かっこ悪いところ見られてるから……」
弱々しい声で放った言葉に、私はまたしても「え?」と聞き返した。
「仕事で油断して蹴られるなんてかっこ悪いでしょ。それにあのとき実弥ちゃんに……」
耳を赤くしてシバケンは口ごもった。
「か……」
「………」
口を開いては閉じる、その慌てる表情に私まで動揺し始める。
「俺ちょっと調子に乗った。あまりにも実弥ちゃんに会うから気が大きくなって……」
私は首を傾げた。
「どういう意味ですか?」
「偶然にしてはよく会うから嬉しくなっちゃって……」
私まで耳が赤くなっているような気がする。耳どころか頬も熱い。
「てか実弥ちゃんとか気安く呼んですみません」
「あ、いえ……」
「本当にすみません!」
今度はシバケンが頭を下げた。
「シバケ……柴田さんこそ頭を上げてください……」
もういい。シバケンを許そう。確かに傷ついたしがっかりしたけれど、度重なる偶然を嬉しく思ったのは私だけじゃないってわかったのだ。
「でも急に抱きしめるとか失礼だし申し訳なくて……職業的に……」
「それは……」
私も悩んだ。私の気持ち次第ではあの行為は犯罪になりかねない。
「それに、こんな人だと思わなかったって言われたから警察官のイメージを壊しちゃったかなって……」
猛烈に反省する姿に思わず私の口元が緩んだ。
「柴田さんはお仕事が嫌いですか?」
「え?」
「大変なお仕事だと思います。強い志があって就いた仕事ではないかもしれませんが辛いですか? 嫌いですか?」
私の質問にシバケンは考え込んだ。
「いや……疲れるし、頭おかしい人も相手にする仕事ですけど、嫌いではないです」
はっきりと言い切った。
辛い状況や思い通りにいかないこともあるだろう。ストレスも溜まっていくはず。お酒に弱くて仕事の愚痴もこぼすけれど、本質は私が好きになったシバケンと何も変わらない。嫌だとしても、日々事件事故と向き合っている。大変な職に従事しているのだ。
「あの愚痴は高木の言葉です。俺も仕事で悩みや愚痴もあるけど、実弥ちゃんには見せたくないって思ったから」
シバケンの言葉が嬉しくて足が震える。だけど精一杯シバケンの前で立ち続けなきゃ。かっこ悪いところは私だって見せたくない。
「職務と向き合っている柴田さんはかっこいいですよ」
私の言葉にシバケンは顔を上げた。
「俺がかっこいいですか?」
「はい! かっこいいですよ!」
私は即答する。けれどかっこいいと答えたことに急に恥ずかしさがこみ上げた。本人にストレートに本音を言ってしまった。
「いや、あの、真面目にお仕事をされててかっこいいですし、頼りになってかっこいいし、柴田さんはほんとかっこいいです!」
もう慌ててしまい自分が何を言っているのかわからない。
「はは」
そんな私にシバケンは笑う。
「いっぱいかっこいいって言ってもらえて嬉しいです」
目を細めて笑う彼に見とれて言葉を失う。かっこいいしか言えない自分が情けない。
「あの夜のことはもう忘れますから。事故ってことで……」
「事故……か……」
少しだけ悲しそうな顔になったシバケンに私は首を傾げた。
「あの……」
「そういえば俺あだ名まで言いましたっけ? シバケンって」
「ああ……はい。知ってます」
「そうだっけかな……」
「柴田さんが教えてくれたんです。だいぶ前ですけど」
7年前ですよ。なんて言ってもまた悩ませてしまうだけだろう。
「じゃあやっぱり、実弥ちゃんは高校の時駅のトラブルで通報した高校生だ」
目を見開いた。
「6年前、いや、俺が初めて就いた交番だから7年前だったね」
「思い出してくれたんですか?」
「俺のことをシバケンって呼ぶ女の子は数えるほどしかいないからね」
シバケンは「懐かしいね」と言って微笑んだ。7年前と何も変わらない優しい顔だった。
「嬉しいです……思い出してくれて……」
「正直言うと、気づいたのは昨日なんだ。実弥ちゃんが咄嗟にシバケンって呼んだとき」
昨夜酔った男性がシバケンに向かって飛んだ瞬間、思わず名前を叫んだ。あれで思い出したのだ。
「駅のホームで不安な顔をしてた高校生だった君の顔まで思い出したよ」
この言葉に顔が赤くなった。あのときの私は恐怖できっと酷い顔をしていたに違いない。
「顔はさすがに忘れてますよね?」
空気を読んで顔を思い出したと言ってくれたのかと思った。
「ううん、顔も思い出したよ。交番に友達と結構来てくれてたでしょ。ごめんね、すぐには気づかなくて」
「いいんです。思い出してくださっただけで十分です」
複数いた女子高校生の中の一人ではなくなった。記憶の中から私のことを思い出してくれた。
「あの時から何も変わってない、かっこいいシバケンがまた見れて嬉しい……」
思わず言ってしまった言葉にハッと口を押さえた。いくらなんでも本音を言い過ぎた。今日は何度シバケンをかっこいいと言えば気が済むのだろう。これではまるで告白ではないか。
恐る恐るシバケンの顔を見ると、彼も私を見返した。驚くほど真剣な顔をして。
「じゃあ尚更、もう一度チャンスをもらいたいな」
「え? チャンスですか?」
「名誉挽回するチャンスがほしい。実弥ちゃんにかっこいいってイメージを定着させたいから」
「………」
どういうことだろうと首をかしげた。
「かっこ悪いところはもう見せたんだけど、もっと俺のことを知ってほしいんだ。良いところも、他の悪いところだって知ってほしいと今は思うよ」
照れた顔を隠すようにシバケンは目を逸らして下を向いた。そんなシバケンがどうしようもなく愛しいと思った。
「はい。もっと知りたいです」
「俺と実弥ちゃんの共通の記憶は、今ここから始め直してもいいかな?」
「お願いします!」
顔を上げたシバケンとお互い笑顔で見つめ合った。こんな風に近い距離にいたいと何度願っただろう。
「あの、連絡先を教えてください」
「ああ、いいよ。遠慮なく連絡ちょうだい。仕事中でなければ大体返事できるから」
勇気を出して連絡先を聞いてシバケンも応えてくれたことが嬉しくなり満面の笑みを向けた。スマートフォンをかざしてシバケンとLINEで友だち登録をした。彼のプロフィール画面には柴犬の写真がある。
「柴犬……ですね」
「ああ、実家で飼ってる犬なんだ」
そのまんまだなって笑った。シバケンが柴犬を飼っていてプロフィール画像にしているなんて。
「まあ狙ってるんだけどね」
彼も恥ずかしそうに笑った。
「今度どっか行こうよ。飯も食いにいってさ」
「是非! いろんな柴田さんが知りたいです!」
警察署前での長いやり取りを終えて、彼と並んで駅まで歩いた。昨日までとは心の距離が違う。そう確信していた。