九話 小太郎、走る
『里見八犬士なる者たちを討ちはたせ』
これが、今朝早くに氏康から申し渡された小太郎の使命である。
昨夜、氏康が今回の里見との戦のために密かに手配していた部隊が壊滅した。やってのけたのはたった八人だという。この部隊の手配のために、小太郎も一族を動かしていただけに、このことを知った時には、曲者揃いの風魔一族を束ね、めったなことでは揺るがない小太郎も大きく動揺した。
しかも恐るべきことに、八犬士による被害はまだ続いている。報告に戻った三人の武士が、いずれも嘔吐し倒れ、まもなく死亡した。そればかりではない。倒れた彼らを介護した者、嘔吐物をかたずけた者らが、原因不明の熱を発し倒れた。すぐさま医者が呼ばれたが、その医者までもが同じ症状で倒れる始末。中には戻った三人の武士と同じ症状で死んだ者もいる。
報告を受けた氏康は、すぐに小太郎を呼び出し問いただした。かの者たちは何者なのか? かつて里見に仕えたという八犬士と関係があるのか? 部隊を襲撃した際に奇怪な技を使ったらしいが、いま起きている騒ぎもそやつらの技によるものなのか?
小太郎はなにひとつ満足に答えることができなかった。里見家の安房統一に尽力した八犬士の血を継ぐ者たちがいるという情報は掴んではいる。だが、今は罪人として囚われの身同然の扱いを受けていると報告を受けていた。それにも関わらず、反抗の意思を見せず、牙の抜け落ちた犬のように大人しくしているという。それでは反乱を促し、里見の撹乱に使うことさえできぬと捨て置いた。
それに、里見の現当主は義弘であるが、いまだ強い発言力を持つ先代の義堯が、彼らのことを
平伏したまま、なにも答えぬ小太郎に、氏康はきつく申しつけた。小田原に向かってきている八犬士を討ち、此度の騒ぎを速やかに鎮めよと。
小太郎は追い立てられるように小田原を出て、まずは風魔の里に戻った。
氏政の軍勢に配下の乱波を半数近く従軍させているのだが、その中でもとりわけ相手を殺す技術に長けた者たちを呼び戻すために使いをだし、八犬士の所在や昨夜壊滅した部隊の生き残りの捜索をするように里に残る乱波に次々と指示をだす。さらには、薬草や日本と南蛮の医学に通じた煎十朗という若者を小田原にやる。これらの指示を矢継ぎ早に終えると、自身は八犬士が現れた三浦半島ではなく、逆方向に近いこの秩父谷へと足をむけた。
秩父に乱立している土豪たちの山城群よりも、さらに奥に小太郎は向かっていた。他国からの進入路からはずれた、足の幅程度しかなく、なおかつ藪に隠された獣道をひた走る。崖下から聞こえる荒川の激流の音が、彼の心を急かし、足をさらに速めさせる。
時間がない。こうしている間にも、八犬士を名乗る輩が小田原を襲撃しているかもしれない。そんな不安にさいなまれながらも、八犬士へ向かわずにこちらへ来たのには、当然ながら理由がある。
情報が欲しい。本来はそれを集めるのも自分たちの仕事だが、残念ながら敵は間近まで迫ってきている。だからと言って半刻もかからずに二百人近くいた軍勢を、たった八名で潰走させた者たちを相手に、いくら集団での奇襲戦法を得意とする風魔一族といえども、なんの情報もなしに勝てるとは思われない。
時間はない。されど情報は欲しい。ならば、すでに持っていそうなところから手にいれる。それが小太郎の下した結論だった。だが、その情報を持つ者たちの居場所を知っている者は少ない。おまけに足の速い者の多くは氏政の軍に従軍している。里に残っている者たちのなかで、目的地の場所を知り、なおかつ最も足の速いのが小太郎自身だったのである。
とはいえ、小太郎もこの道を走るのはこれで二度目。前に通ったのは三十年も昔。彼がまだ小太郎の名を継ぐ前のことだ。
視界をふさぐ木々が減ってきた。獣道の終わりがすぐそこであることを悟る。この獣道を走りきり、山林を抜ければ断崖にでる。そこに小太郎の目的地に行く唯一の手段であるつり橋があるはず……。