7
「こんなことになるなんて思わなかった……」
結果私が浅野さんを傷つけた。人生をめちゃくちゃにしてしまった。
「よくわからないんだけど、あの男は君が連れてきたの?」
「っ……はい……」
浅野さんの言葉に目が潤み始める。
「ごめんなさい……」
心からの謝罪。本当はもっと早く言うべきだった言葉。
しばらく黙っていた浅野さんは溜め息をついた。
「悪かったと思ってるんだ?」
「はい……」
「じゃあ僕を好きだと言ったのは罪滅ぼし?」
「え?」
「僕に好きだと言えば過去の罪がなくなると思った? 美麗の代わりに慰めてあげようってこと?」
「そんなんじゃありません!」
それは絶対に違う。そんな理由で好きにならない。そんなことで気持ちを伝えない。身体の繋がりを求めたりしない。
「過去は関係ありません! 浅野さん自身を好きになったから!」
私は必死に叫んだ。
「あの時はあのまま美麗さんと結婚したら浅野さんが傷つくと思って!」
「なら僕が可哀想だって同情した気持ちを好きだと勘違いしたのかもね」
「信じてください……この気持ちは同情なんかじゃない」
私は何度浅野さんに疑われて弁明してきたのだろう。
「信じる、ね……」
浅野さんは下を向いてわざとらしく「ははっ」と笑った。
「ちょっと無理かも。足立さんを信じるの」
その言葉に私の体は凍りついたように動かなくなった。
「結婚を壊した男と同じ会社になんてよく来たね。僕に恨みでもあるの?」
「違います! 本当に偶然です!」
知っていたら入社しなかった。自分が傷つけた人の今を見るのは辛かった。
「美麗に捨てられた僕は愛だの恋だのがバカらしくなっちゃって、いらない感情だって思ってた。でも足立さんとなら前に進めると思ったんだ。君が僕に向けてくれる真っ直ぐな気持ちが嬉しかったから……」
私も変わっていく浅野さんの新しい一面が見られて嬉しかった。
女の人に不誠実な付き合い方をする浅野さんは見ていられない。私が何とかしてあげたいと思ったのに。
「君の気持ちが苦しい。僕はもう君のそばでは笑えないかもしれない」
私と目を合わせない浅野さんはこれまでに何度も見てきた。けれど今ほど悲しいと思ったことはない。
「僕が一番辛いのは君に嘘をつかれたことだ。これじゃ君は美麗と同じだよ」
衝撃を受けた。私が美麗さんと同じだと言うのか。
「僕の過去を知ってることも美麗の友達だってことも全部正直に話してほしかった。その上で僕を好きだと言ってほしかった。こんな形で過去を蒸し返したかったんじゃない。美麗が来なければずっと黙っていたなんて最低だ」
体から力が抜けていく。立っているのがやっとだ。
「君を最後まで信じてみたかったよ」
その言葉を聞いて目を閉じた。もう涙も出ない。反論もできない。
『信じてみたかった』という言葉には私に希望を持ってくれたのに裏切られた悲痛が込められていた。『最後まで』とはいつなのか分からないけれど、浅野さんの中で私は特別になりかけていたんだと思う。
「もう私に可能性はないですか?」
「あったとして、君はまだやる気?」
声が呆れている。言外に『可能性はあるわけない』と含まれているような言い方だ。今からまた駆け引きを始めるにはお互いダメージを受けすぎた。
浅野さんと過ごした時間は幸せだった。もうあの時間が戻らないなんて思いたくない。あなたにもそう思ってもらいたいのに。
腕時計でさり気なく時間を確認する浅野さんに話を終わらせようとする空気を悟った。
「君は本当に僕が好きなんだ?」
血の気が引いた。その質問に答えられないからじゃない。浅野さんの声には感情がこもっていないからだ。私がどんな答えを言おうと、彼は私の気持ちなんてもう信用するつもりもないのだ。私が『好きです』と言っても信じない。『偽りの気持ちです』と答えればそこで関係は完全終了。ただの先輩後輩、上司と部下に戻るだけ。
あなたに抱き締められて嬉しかった。あの瞬間の喜びは嘘じゃない。
「すきです……」
私の声が震えているのは隠せない。
「過去から逃げたいです……浅野さんを傷つけたことを上書きしたい……」
あの時の後悔から逃げたいと思ったことも嘘ではない。あなたに愛されたら、全部なかったことにできるって思わなかったわけじゃない。ずるい心は常にあった。
「自分を悪者にしないように、ずっと今日まで隠してきました。そこまでしてでも望んだんです……」
どうして再会してしまったの……こんなことなら出会わなければよかった。あなたの存在の大きさを知らない方が楽でいられたのに。
「浅野さんと離れたくないです……」
こんなに好きになってしまった。気持ちは変わらない。あなたが離れていくのが辛くて、好きだという心は変えられない。
「しつこいを通り越して呆れるよ。その図太さに」
「………」
「美麗の友達だけあってそっくりだね」
スーッと涙が頬を伝う。
この人は私に対して完全に壁を作った。
「僕はもう終わりにするよ」
浅野さんは車のドアに手をかけた。
「ごめんなさい……」
もうそれしか言えない。そんな言葉はうんざりだろうけど、何でもいいから言葉をぶつけてこの人をどうにか引き留めたかった。
「足立さん気づいてた? 僕が君に好きだとか愛してるとかを一度も言わなかったことを」
気づいていた。キスをして抱き合って、気持ちが通じていることは感じたけれど、彼からは一度も気持ちを言葉で表してくれることはなかった。
「言うのが怖かったんだ。言ったら本物になる。その覚悟がまだできなかった」
浅野さんの手で車のドアが開かれた。
「言う前でよかったよ。君と寝なかったことも正解。お互い傷は最小限でよかったね」
私から身体を求めても浅野さんが応じてくれたことは一度もなかった。それは大事にされているからだと思っていた。彼が慎重になっていても私は待てた。抱き締める腕が優しかったから。お互いがお互いを想っていたはずなのに。
「もう会社以外で会うこともないね」
「っ……」
今更セフレにすらさせてもらえないのだ。
「じゃあお休み足立さん。さようなら」
そう言い捨てて車に乗った浅野さんは私の顔を見ることなく発進させた。
見えなくなるまで見送ったけれど、スピードを出して止まることなく行ってしまった。
彼はもう私のところへは戻ってこない。これから始まっていくと思った関係が今日で終わってしまった。こうすればよかったと思うばかりで修復は不可能に近い。浅野さんにしてみたら最低最悪の状況だ。もっと早く、何もかも正直に話していたら違った形で続いていけたのかもしれない。
自分の腕で自分の体を抱きしめた。浅野さんの温もりをなくした体は冬の外ではいっそう寒い。あの唇に触れられた耳や首は風のせいだけじゃなく冷たい気がする。
私はいつまでもマンションの前に立っていた。家に入ってしまったらお風呂に入って寝なければいけない。寝てしまったら朝がくる。そうしたらいつもの一日が始まってしまう。心にぽっかり穴が開いたまま日常生活を送ることが怖い。
母から帰りが遅くて心配した電話が来ても、私はしばらく中に入ることができなかった。