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「浅野さんだけが……」
言いかけて再び浅野さんの腕に包まれた。今度は前から。私の首と肩の間に彼は顔を埋めるように。
「君は本当にしつこいね……」
浅野さんの吐息が胸元にかかってくすぐったい。
「しつこいのが浅野さんを落とすテクニックです……」
「それは全然効果ないよ」
軽く笑いながらも手を上げて私の頭を撫でた。
「その言葉も信じられませんよ……」
効果は少なからずあったはず。こうして抱き合うのは浅野さんから始めたことだから。
浅野さんは顔を上げて私の耳の上の髪にキスをした。
「……浅野さん?」
今までとは違うあり得ない行動に夢ではないかと思ってしまう。
「強気で一途なくせに、何で無防備なんだよ……」
耳元で囁かれる言葉の全てにゾクゾクする。
「他の男に隙を見せるな……」
「ごめんなさい……」
「今だって、簡単に捕まってるじゃないか」
「浅野さんなら怖くないです」
「………」
「浅野さんだからいいんです」
この心も身体も、あなたになら全部あげたって構わない。怒られたって冷たくされたって、もう怖くない。
「本当に君は……」
私を抱く腕が体をぎゅっと締め付ける。
「優磨を選んだ方が幸せになれるのに」
確かに優磨くんはいずれ社長だし、私にメリットはあるだろう。美麗さんに似てイケメンだし優しくて私を傷つけたりしない。それでも……。
「浅野さんが好きなんです」
この気持ちは変えられない。どうしようもない。
「足立さん、僕はワガママだよ?」
「はい、それでも尽くします」
「女の子が望むようなことも言えないし気も遣えないよ」
「はい、よく知ってますから」
「面倒な男と思うかも」
「浅野さんが面倒なのも慣れてます」
全部知っても、それでも離れたくない。
「浅野さんこそ、私はセフレじゃ嫌ですよ……」
都合のいい時だけ身体を重ねる関係はお断り。あなたの一番になりたいのだから。
「セフレになんかしないよ」
右耳のすぐそばから囁かれるのは腕の中に縛りつける魔法の言葉。心も身体も私を離さないという意思が伝わる。肩が震えて足に力が入らない。
「君を信じてみたくなったよ」
この言葉が何よりの贖罪だ。
髪に、耳に、頬にキスをされたとき、くすぐったさに抵抗して顔を動かした瞬間唇を奪われた。優しく触れて、離れたと思ったらまた触れた。浅野さんのメガネが私のまぶたに触れてずれてしまう。だから私は両手で浅野さんのメガネをゆっくりはずすと、目を瞑ってもう一度キスをねだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
正面の壁一面ガラス張りのチャペルからは青く澄んだ海に反射した太陽の光が差し込み、雲一つない青空と海を背景に立つ虚ろな顔をした浅野さんが目に焼き付いて離れなかった。
今では私にキスをしたあとの少し照れた顔や、別れの間際に向けてくれた笑顔が脳内を占めている。
私は単純だった。浅野さんの全てに一喜一憂して、このまま過去の罪を告白することなく彼のそばにいられると思っていたくらいに。
キスから浅野さんとの新しい関係が始まった。そして同時に新たな罪の始まりでもあった。
スマートフォンのアラームで目が覚めた。自分の部屋だと思って目覚めたそこは見慣れない天井。顔を動かせば見慣れない家具が置いてある。横で眠る浅野さんの姿を見てからここが彼の部屋であることを思い出した。
ゆっくり体を起こして部屋を見渡し、ベッドサイドボードに手を伸ばして鳴っているアラームを止めた。小さめの音に設定されたアラームで彼を起こしてしまわなかったことにほっとする。
メガネを外した寝顔を見られる日がくるとは思わなかった。
最近の浅野さんは残業が多く疲れている。できればまだゆっくり寝ていてほしい。
私の家よりも浅野さんの家の方が会社に近い。いつもと同じ時間にアラームは鳴るけれど出勤まで余裕があった。朝ごはんを作ろうとベッドを下りようとしたとき
「ん……」
浅野さんが寝返りを打ったかと思うとゆっくりと目を開けた。
「おはようございます……」
「おはよう……」
寝起きの彼の声は低い。誰かを叱責する声に近い。それに怯えることはもうないし、彼が叱責することも減ったのだけれど。
「今何時?」
「6時です」
「早い……まだ寝ててもいいよね……」
浅野さんは目を擦ると再び寝ようとする。
「じゃあ私は朝ごはんの用意をしますね」
立ち上がろうとしたとき布団の中から腕が出てきて私の腰に回った。
「わっ!」
布団の中に引っ張りこまれた。背後から浅野さんに抱き締められて、私の背中と浅野さんの胸が密着する。
「いいよ朝ごはんは……」
いきなり抱き込まれて驚いたけれど嬉しかった。浅野さんからのスキンシップに期待してしまう。
「でも朝はちゃんと食べないと頭働きませんよ」
期待していることを悟られないように起きるように勧めてみた。
「うー……」
寝惚けた浅野さんは手を私の腰から太ももへ滑らせる。
「浅野さん……」
布越しでもくすぐったさに体をよじって抵抗する。
「ごめん、嫌だった?」
「あ、いえ……違うんです。くすぐったくて」
嫌なわけがない。もっと触れてほしくてたまらない。
「あれ……もうスカート穿いたの?」
浅野さんの手が私の太ももに直に触れた。
「いや、これは……浅野さんのシャツしか着てないからで……」
昨夜パジャマ代わりに浅野さんのTシャツを借りた。下着とそれだけを着て寝たのだ。私には大きめのTシャツだけど太ももまでの丈しかない。横になると更に太ももがあらわになる。少し手を下に動かしただけで肌に直接触れてしまえる。
「あー……ごめんね、これしかなくて……」
浅野さんはそれだけ言うと私の太ももから手をどけた。
「いいえ……」
昨夜Tシャツを渡してすぐにベッドに入ってしまった。私に背中を向けて寝てしまったので、関係を進める作戦は失敗に終わった。
「しばらくこのままでいい?」
私を抱き締めて横になっているだけの体勢だ。
「いいですけど、ただ寝てるだけでいいんですか?」
遠回しにそれ以上のスキンシップも構わないと伝えたけれど、「これが落ち着くから」と私を抱いた腕を腰から動かすことはなかった。浅野さんの部屋に泊めてくれるようにはなっても、身体を繋げようとしてくれたことはない。
「足立さんの髪、いい香りだね」
「昨日の夜は浅野さんのシャンプーを使いましたから同じ匂いがするはずですよ?」
「そうかな? 僕はこんなにいい匂いしないけどな」
私の髪に顔を寄せる。そうして髪にキスをされた。唇に受けるのとはまた違う感触にキスをされた頭のてっぺんがくすぐったい。
何度も私からくっついて、浅野さんからも私に触れてくれる。キスをして抱き締めてくれても、私はまだ浅野さんと身体の繋がりはない。強引に家まで押し掛けて薄着で横に寝ても、こうして腕で包んでくれるばかりで服を脱がそうともしてこない。腰より上に手を動かすことはない。腰より下に触れることはもうない。
「浅野さん」
「ん?」
「抱いてください……」
女から言うなんて恥ずかしいセリフだ。でも言わないと深い繋がりはずっとないと思えてしまう。
「抱いてるよ」
浅野さんの腕はいっそう強く私を抱き締めた。
「そうじゃなくて……」
ものすごく勇気を出した。引かれるかもしれないけど身体だって浅野さんと繋がりたいって思ったのに。
「……時間をちょうだい」
浅野さんの声は少しだけ掠れている。
「君を軽く扱いたくないんだ……」
それは何よりも嬉しい言葉だ。
不安だった。身体で繋ぎ止めないとすぐに離れてしまいそうで。けれど私を大事にしてくれる浅野さんの気持ちを尊重したい。