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「………あ、まだ会社にいます? 毎日残業なんて慶太さんの会社ブラックですか?」
このタイミングで浅野さんに電話するなんて何をする気なのだろう。
「……今俺の隣にいます。今からラブホに行きます」
「は!?」
私の口から大きな声が出た。優磨くんの嘘にあまりにも驚いたから。
「そうです、駅の向こうの……美紗さんですか? 嫌がってますけど無理矢理連れ込みます」
「優磨くんやめて!」
そんな嘘は今の浅野さんに誤解されてしまうと焦って優磨くんのスマートフォンを取り上げようとしたけれど、優磨くんは片手で私を軽く遮った。
「……怒鳴らないでくださいよ。だって慶太さんは応援してくれてましたよね?」
「やめてって!」
「美紗さん泣きそうですけど、慶太さんは美紗さんが俺とどうなろうと関係ないですよね」
私は必死にスマートフォンを奪おうとするけれど、優磨くんは私をかわして笑顔で会話している。
「あ、このピンクの外観のホテルが良い感じです……でっかい鏡がベッドと天井についてる! すげー! ……はい、泣いてますけどそれがそそります」
「ほんとに! お願いだから!」
「嫌がってる子を無理矢理ってのも燃えますね……だから怒鳴らないでくださいって」
「優磨くん!」
「じゃあ切りますねー」
優磨くんはやっと耳からスマートフォンを離した。私は初めて優磨くんに怒った。これでは浅野さんに今からホテルに入ると勘違いされてしまうじゃないか。
「すいません。でも完璧です」
「どういうこと?」
「美紗さんの嫌がる声も効果抜群でした」
「意味が分からないんだけど……」
「まあ待っててください。たぶん30分くらいで来ますから」
優磨くんは目の前の植え込みのタイルに座った。
「寒いかもしれないですけど、少しだけ我慢してくださいね」
私を安心させる優しい笑顔で横に座るよう促した。
優磨くんに言われるままにしばらく待つことにした。周辺のホテルに入るカップルが不思議そうな顔をして私たちを見ていった。
もうすぐ日付が変わろうかという時だった。
「優磨!!」
離れたホテルの角を曲がってこちらに走ってくる人の姿が見えた。
「ほらね、すぐに来たでしょ?」
優磨くんは立ち上がって私に笑いかけた。こちらに近づいてくるのは浅野さんだ。笑う優磨くんとは反対にものすごく怒っているようだ。眉間にシワが寄っているのが見える。
「優磨! お前……何してるんだよ!」
私達の目の前で止まった浅野さんは肩で息をして怒りのオーラを発している。優磨くんに殴りかかりそうなくらいの殺気を感じて、私は怯えて立ち上がると思わず優磨くんの近くに寄った。
「何もしてないですよ。でも慶太さんがあと少しでも遅かったらホテルに入ってたかもしれないですね」
この言葉で浅野さんは更に機嫌が悪くなった。そして事の成り行きを不安に思っている私と目が合った。その不安な顔を勘違いしたのか、珍しく優磨くんを睨み付けている。優磨くんは始終ニコニコしているのだけれど。
「そんなに心配ならさっさと好きだって言っちゃえばいいのに」
「は?」「え?」
私と浅野さんの声が重なった。
「いっつも美紗さんのことばっか話して、閉店間際までブックカフェに来るかどうかソワソワしてるじゃないですか。夜中に来るわけないのに」
私は浅野さんを見たけれど彼は私から顔を背けてしまう。
「俺と美紗さんが二人きりの様子を聞きたがるし、今も美紗さんが嫌がってるからってこんな所まで止めに来て」
「浅野さん……どういうことですか?」
「やめろ優磨」
怒りを隠すことなく優磨くんの言葉を止めようとするけれど顔は下を向いたままだ。
「俺を応援してるのか嫉妬してるのかどっちですか?」
「優磨!!」
浅野さんは優磨くんに向かって怒鳴った。初めて聞く本気の怒鳴り声に私の体は震える。浅野さんが怖い。そう思ってしまった。
「ほんとに、いい加減素直になってください。俺はもう美紗さんにフラれてるんですから」
「え?」
浅野さんから怒りが消えて驚いた顔になる。
「とっくに両思いなんですよ。見てて焦れったいったらないです」
「………」
私も浅野さんも言葉が出ない。だって浅野さんは私にずっと冷たかった。どんなに気持ちを伝えても相手にしてくれない。だから優磨くんの勘違いなんじゃないかと思えるほどだ。
「慶太さん、俺のことは気にしなくていいんです。もう俺は子供じゃない」
浅野さんの目が揺らいだ。ずっと優磨くんを弟のように、まだ子供だと思って接してきたのだろう。だから優磨くんにそう言われて寂しく感じたのかもしれない。
「それとも、奪っていいなら美紗さんを惚れさせる自信はあります」
優磨くんは突然私の肩に手を置くと顔を近づけてきた。
「っ……」
キスをされる。そう思った瞬間、私の左腕が引っ張られて体が揺れた。
「やめろって言っただろ」
ぶつかる衝撃と共に耳のすぐ横で浅野さんの声が聞こえる。私の体は後ろから浅野さんの腕に包まれている。
「え……」
この状況に戸惑った。浅野さんは優磨くんを睨み付けて、優磨くんはやっぱり笑顔だ。
「そう、最初からそうやればいいんですよ」
「………」
腰に回った浅野さんの腕の力が少しだけ強くなった。私は小柄ではないけれど、体全てを包まれている感覚になる。私の心臓の鼓動が浅野さんの胸に伝わってしまいそうなほど密着している。
「浅野さん……あの……」
私はどうしたらいいのか分からないで困惑したままだ。顔を少しでも動かしたら浅野さんの顔に当たってしまう。だから抱き締められたまま動けないでいた。
「美紗さんが困ってますよ」
「………」
浅野さんはやっと私を解放したけれど腕はつかんだままだ。
「もう遅いのでちゃんと美紗さんを送っていくんですよ」
「後で連絡するからな」
「はいはい。どうぞごゆっくり」
浅野さんが私の手首をつかみ直すと引っ張って歩きだした。
「ちょっ、え……浅野さん!」
「………」
私が抵抗しても信じられないくらいの力で引っ張られる。優磨くんは私達に手を振っている。
「浅野さん痛いです。放してください!」
私の訴えを無視して振り返ることなく歩き続ける。優磨くんの方を振り返るとホテルの前で立ったまま夜空を見上げていた。
「浅野さん!」
「………」
「離してください! 私のことなんてどうでもいいと思ってたんじゃないんですか?」
足に力を入れても手を振りほどこうとしても無駄だった。どんどん引っ張られる。男の人の力には敵わない。
不安よりもだんだん恐怖が勝ってきた。優磨くんと出掛けたりして、ホテルにまで行くと勘違いされた。あれだけ浅野さんが好きだと言っておきながら他の男と会う私は浅野さんの元婚約者と何も変わらない。私はまたしてもこの人を傷つけてしまった。
大通りまであと少しというとき、浅野さんはやっと止まった。掴まれた私の手はもう感覚がない。それでも浅野さんは放してくれなかった。
「浅野さん?」
「………」
「怒ってます?」
「当たり前だろ」
やっと話してくれた言葉は冬の空気に溶け込むように冷たい声だ。
「少しは警戒しなよ。優磨だって男なんだよ」
「あの……」
「ホテルまでついていくなんて君はバカか?」
みるみる目が潤んできた。怒られたことは何度もあるけどバカと言われたのは初めてだ。
「っ、うっ……」
ポロポロと涙が地面に落ちた。驚いた浅野さんはつかんだ手の力を少し緩めた。
「ずっと私の気持ちを無視してたのに……今更怒るなんておかしいのはどっちですか?」
泣きながら浅野さんに訴えた。だって優磨くんと二人になるように仕向けたのは浅野さんなのだ。
「私はずっと浅野さんが好きだったのに!」
浅野さんだけを見て、浅野さんだけを好きでいた。