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社員がまばらな午後のフロアに電話が鳴る音が響く。レストラン事業部は店舗管理課の社員はほとんど電話を取らず、企画管理課の社員が電話応対することが暗黙の了解になっている。私はいつものように受話器を持って応答ボタンを押した。
「早峰フーズ、レストラン事業部でございます」
「店舗管理課の浅野です」
「お疲れ様です……」
まともに話をしたのは何日振りだろう。浅野さんの頬を平手で叩いたことすら謝罪していないままだ。
「足立さん……かな?」
「そうです……」
受話器を通して聞く彼の声はいつもより少しだけ幼くて優しく聞こえる。この声の主と先日私にセフレになってもいいと言った人が同じ人物とは思えない。
「ホワイトボードの僕の帰社予定が16時になってると思うんだけど、予定が変わって18時になるから」
「そうですか。じゃあ書き換えておきます」
「よろしく」
「それでは……」
「足立さん」
電話を切ろうとした私を浅野さんは止めた。
「優磨とは……」
「………」
「………」
言いかけて浅野さんは黙ってしまった。優磨くんがどうしたと言うのだろう。私は優磨くんに告白されたことも、その気持ちに応えられなかったことも、もちろん浅野さんには伝えていない。優磨くんが浅野さんにどう言ったのかは把握していないけれど、きっと大体のことは知っているのかもしれない。
「仕事中なのでプライベートな話はまたの機会にお願いします」
「………」
「他に何もないようなら切りますね。失礼します」
私は浅野さんの返事を待たずに受話器を強めに置いた。我ながら冷たい対応だとは自覚している。けれど今浅野さんにどう接していいのか分からない。
立ち上がってホワイトボードの前に行くと浅野さんの名前の下の『16時』を消して『18時』と書いた。そして振り返ると私をじっと見つめる今江さんと目が合った。
「今日は予定変更で18時戻りだって」
浅野さんが帰ってくるのか気にしているのかと思って声をかけたけれど、今江さんは「そうですか」と言いつつも私から目を逸らさなかった。
「今江さん、どうかした?」
「いえ……」
そうしてやっとパソコンの画面を向いた。視線から解放された私は自分のデスクに戻った。
ああ、そうか。
今江さんが不審な理由に心当たりがある。レストラン事業部の中で密かにささやかれている噂があるからだろう。浅野さんと私は忘年会の後に二人でどこかに消えてしまったと。噂の出所は熊田さんだろうとは想像がつくけれど、あの日私が期待した以上のことは何も起こっていない。今となっては酷い状態になってしまった。
こんな感じで浅野さんだって他の社員だって、本人のいないところで勝手に噂されて人間性を決めつけられているものなんだろう。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
残業する必要はないけれど定時を過ぎてもデスクに座って来週分の仕事にも手をつけていた。これから優磨くんと映画に行くことになっていた。待ち合わせの時間がくるまでサービス残業をして時間を潰している。
優磨くんは浅野さんに私と映画に行くとだけ伝えて、告白してくれたことは内緒にしているのだと教えてくれた。
『俺と映画に行くのも作戦なんですよ! 慶太さんは俺と美紗さんが遊びに行くのを不安に思うはずです』
優磨くんはそう言っていたけれど、あの浅野さんが嫉妬するはずない。
そろそろ退社しようとExcelのデータを保存して、調べものをしていたネットのページをホーム画面に戻したとき、新着の芸能記事の見出しが目に入った。驚いて目を見開き、恐る恐るクリックして読んだ記事に私は寒気がした。KILIN-ERRORのボーカルTAKUMIと、若手女優が熱愛中とのスクープ記事だった。
匠……のこと? え、だって美麗さんは?
デスクの片付けも忘れて食い入るように記事を読んだ。匠が交際しているという女優は今から優磨くんと観に行く予定の映画で主役を演じている21歳の若手美人女優だ。記事によると二人は数ヵ月前から交際をスタートさせて、先日女優の住むマンションに匠が入っていき一晩泊まったと書かれている。映画の主演女優とバンドのボーカル。初スキャンダル同士で人気急上昇中ということもあり、SNSでの二人に対するコメントも増えているようだ。
数ヵ月前から交際ということは、美麗さんとはとっくに別れていたのだろうか。
その事を優磨くんも知らないようだったし、浅野さんに至っては美麗さんの情報全てを拒絶しているかもしれない。このスクープを二人が知ったら更に深く傷ついてしまうことだってある。
匠が美麗さんと別れたってことは、今美麗さんはどうしているの?
会社のトイレでメイクを直すと、まだ残っているフロアの社員に「お先に失礼します」と声をかけた。帰社していた浅野さんは他の社員と同様に「お疲れ様」と言ってくれたけど、私を見ることもなくパソコンに目を向けて仕事に没頭している。
ネットのニュースはもう読んだだろうか。それとももっと前から知っていたから今更驚かないのかな。
優磨くんが浅野さんは私と会うのを不安に思うはずと言ったけれど、不安に思っているようには見えない。引き止めないし何も言わない。彼にとって私は後輩で部下でセフレ候補なんだから。
駅を挟んだ反対側の繁華街を少し歩くと映画館がある。バイトを終えた優磨くんと待ち合わせて映画館まで歩いた。
「美紗さん、慶太さんに素っ気なくなったのは作戦か何かですか?」
「え? 素っ気ない?」
「慶太さん言ってましたよ。美紗さんがあんまり話しかけなくなったって」
「作戦ではないけど……」
優磨くんの知らないところで浅野さんと気まずい時間があったのだから、私からはもう戦意が無くなりつつある。
「浅野さん、そんなこと優磨くんに言ったんだ」
「結構話してくれますよ、美紗さんのこと」
「へー、意外……」
どうせ優磨くんの私に対するイメージを良くして後押ししたり、早く付き合えとか何とか言っているに違いない。
「押してだめなら引いてみろ作戦は効き目ありです」
作戦なんかじゃない。小細工はあの人には通用しない。私に振り回されたりなんかしないんだから、優磨くんの勘違いだろう。
映画の内容はほとんど頭に入らなかった。主演女優と匠のことを考えてしまって。スクリーンの中の女優は高校の制服を着て、泣いたり笑ったりキスだってしていた。
美麗さんとこの子はタイプが違う。清楚で真面目で演技も抜群に上手い期待の女優。バラエティーやトーク番組に出てもきちんと敬語を使える可愛らしい女の子だ。美麗さんとは何もかもが違っている。その事が複雑な過去を持つ私達には残酷だ。
隣に座る優磨くんは知ってしまっただろうか。今何を思ってスクリーンの彼女を見ているのだろうか。
上映が終わったのは22時を少し過ぎた時だった。駅に向かうのかと思ったけれど優磨くんは繁華街の奥にどんどん歩いていく。
「優磨くんどこ行くの? 帰らないの?」
「今から作戦開始なんですよ」
「え? どういうこと?」
そういえば映画に行くのも作戦と言っていた。映画に行くことと帰らないことの何が作戦なのだろう。
「ここら辺でいいですかね」
「優磨くん……ここはちょっと……」
暫く歩いてやっと止まったと思ったら人通りの少ないホテル街だ。目の前にはキレイな室内が写された看板にびっしりと料金が書かれ、そのライトは私と優磨くんの顔をピンク色に明るく照らしている。
「大丈夫です。ラブホには入りませんから」
そう言うと優磨くんはスマートフォンで電話を掛け始めた。