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「例え僕が君のことを好きにならなくても?」
「それは……悲しいです……」
浅野さんがいつまでも私と距離をおくようなら寂しくなってしまうかもしれない。
「でも浅野さんを幸せにしたいと、今はそれしか思えません」
以前は冷たい人じゃなかった。表情が豊かだった。もっと笑っていた。もう本当の浅野さんに戻ってほしい。
「幸せ、ね……」
「浅野さんが好きで、浅野さんを知りたくて、もっと笑顔になってほしいです」
ずっと思っていたことの全てを吐き出した。
「やれるものなやってみな」
不敵な笑みを浮かべて、浅野さんは私を見据えた。
「僕は今でも十分恵まれてる。これ以上のことが君にできるとは思えないよ」
「やってみせます!」
挑発的な言葉に挑戦的に返す。
「まあ頑張って」
私の答えに満足したのか、浅野さんは微かに笑いながら私に背を向けて通路を歩いていった。
今度はちゃんと私の気持ちを聞いてくれた。離れていく背中とは反対に、少しだけ距離が縮まった気がした。
ほんの一瞬、過去に見た浅野さんの姿が重なった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ホワイトボードの浅野さんの名前の下には『直帰』の文字が書いてある。隣県の店舗に行っている浅野さんが今日これから会社に戻って来ることはまずないだろう。
退勤後に一人でブックカフェに来た。浅野さんの好きな場所にいたくて。浅野さんのことをもっと知りたくて。
ブックカフェの前に置かれたウェルカムボードを見た。今夜のお勧めはパンとサラダが付いたビーフシチューのセットだ。
私を気に入ってくれたという優磨くんがお店にいないことを願ったのに、店に入るとカウンターには今日も優磨くんがいた。浅野さんに気持ちを伝えたことを優磨くんは知らないだろうけど会うことが躊躇われた。
私が入ってきたことに気づくと満面の笑みで迎えてくれた。
「こんばんは! 来てくれてありがとうございます!」
店内の静寂を壊す優磨くんの声に他のお客さんも私を見た。
「優磨、声が大きい!」
「すいません……」
店長に怒られてうな垂れる優磨くんはまるで犬のようだ。
「お疲れ様です」
私は笑いながら店長や他のアルバイトの子に挨拶をすると優磨くんの前のカウンター席に座った。
「この間はすいませんでした。気まずい空気にしてしまって」
そういえば二人にしかわからないことで優磨くんが浅野さんに窘められたっけ。
「いえ、私がいたせいで浅野さんが怒っちゃったかもしれないから……」
「それは違いますよ。慶太さんとはいつもあんな感じだから気にしないでください」
優磨くんは慣れているのだろう。浅野さんの扱い方も熟知している。
「何飲みますか? それともお食事していかれます?」
「じゃあブレンドお願いします」
「かしこまりました」
今日のおススメのビーフシチューが気になるけど、長居するつもりはなくてコーヒーだけを頼んだ。
優磨くんがカップにブレンドを注ぐ間、先日読みかけて閉じた雑誌が目に入った。1ヶ月近くたつのにまだ変わらず置かれたその雑誌をラックから取った。慌てて閉じたページをもう一度開く。そこにはカメラ目線で並んで立つ四人の姿がある。
『KILIN-ERROR』という四人組バンドは昨年デビューして、曲が人気アニメの主題歌に起用されたのをきっかけに10代から20代の女性に人気だ。
『デビューから1年を迎えた彼らの素顔』
そう大きな見出しがある。次のページにはメンバーそれぞれのインタビューと新曲の告知が掲載されている。
写真で見る彼ら、特に左から二番目の彼は私が最後に見たときよりも顔つきが大人になり、メイクとプロのカメラマンの手によってイケメンと呼ばれる部類に見える。
インタビューの中身にはさほど興味がない。このインタビューでは語られない素の部分を私はよく知っているから。
「そのバンド好きなんですか?」
優磨くんがカウンターにカップを置き、目は私の読む雑誌を見ている。少し怒ったような、不機嫌そうな目をしてバンドメンバーを見た。
「ううん、好きではないんだけど……」
ほんの少しの懐かしさと興味。それで見ていただけだ。
「今人気ですよね。キリンエラー……でしたっけ? テレビつけても外でも、どこにいてもこの人たちの曲流れてます」
「そうだね……私はあんまり音楽聴かないから詳しくないんだけど」
「俺もこのバンドは嫌いです」
「………」
いつもよりも力強い声できっぱりと言い切った優磨くんに驚いた。今までの印象から優磨くんは好き嫌いがあっても濁して伝える子だと思っていた。それだけこのバンドを嫌う理由があるのかもしれない。
「それは何で?」
「そういえば慶太さんって会社じゃどんな感じですか?」
「え?」
「きっと会社でも小うるさく部下に注意してるんじゃないですか?」
「えっと……」
「優しい言い方とか出来ない人だから泣いちゃう女の子とかいないですか?」
優磨くんはバンドを嫌う理由には触れてほしくないらしい。強引に浅野さんの話題に持っていく。
「そうだね……会社じゃそんな感じかな」
「やっぱり。ほんと分かりやすい人だからな」
「浅野さんが分かりやすいなんて言うのは優磨くんくらいだね」
「そうですか? すごく分かりやすい人ですけど」
付き合いが長いからこそ言えるのだ。優磨くんが中学生の頃から知っているということはもう10年近くになるのかもしれない。
もしかしたら優磨くんは浅野さんの過去も婚約者のことも全部知っているのではないだろうか。問題の結婚式は4年前。その頃優磨くんは高校を卒業する頃だ。
「ねえ優磨くん……」
「あ、ココア飛んだ!」
スチームでココアを温めていた優磨くんのエプロンにココアが飛んで大きな声が出た。
またも私の質問は遮られた。
「優磨、お客様がいるんだから」
「すいません……」
何度も店長に怒られた優磨くんは焦っている。
「あーあ……洗ったばっかなのに……」
タオルでエプロンをトントンとたたく優磨くんの胸に付いた名札に目がいった。そして『しろふじ』と書かれた名前に息を呑んだ。
しろ…ふじ?
「ねえ優磨くん」
「はい」
優磨くんはエプロンを拭きながら返事をした。
「優磨くんの名字ってどんな字を書くの?」
名札はひらがなで書かれている。もし私の思う『しろふじ』だったなら……。
「お城の城に草冠の藤で城藤です。藤は加藤とか佐藤と同じ字の」
ああ、やっぱり……。
「そっか……そうなんだ……」
「名前がどうかしました?」
「いや、あの大手企業の城藤と同じ名前だから……」
「えっと……そうなんです。実は……」
優磨くんはカウンター越しに私に顔を近づけた。
「俺の実家は城藤のグループの一つなんです。父が会社を経営しています」
まさかこんな偶然が起こるなんて……。
「みんな意外と気づかないんです。その事を言われたのは足立さんだけですよ」
手が小刻みに震えた。過去の罪は私をいつまでも縛りつける。
「このカフェの人には内緒でお願いします。御曹司様、なんて言われかねないんで。ここのスタッフすぐにからかうんですよ」
「浅野さんは知ってるの?」
「俺の実家のことですか? はい、知ってますよ。慶太さんも家に来てくれたことがありますから」
城藤優磨。よく見ると顔があの人と似ていなくもない。この子が本当にあの城藤家の人間だとして、もしもあの人に近い親族なら、今でも浅野さんのこんな近くにいるなんて……。
私はゆっくりと雑誌を閉じた。
「もう帰るね」
「え? またですか?」
優磨くんはびっくりして私を見た。何度も慌てて帰る変な女だと思ったかもしれない。でも名字が城藤だと知ってしまった以上、私は急いで確認しなければ。
「ごめんね」
出されたコーヒーを味わうことなく急いで飲んだ。まだ熱いコーヒーで舌を火傷したけれど、そんなことを気にしていられない。
「あの、足立さん……また来てくれますか?」
優磨くんの目は不安からか少しだけ赤い。私の答えに緊張しているようだ。
「うん……また時間ができたらね」
私がそう言うと優磨くんは嬉しそうに笑う。もし尻尾があったとしたら左右に揺れるのではないかと思うほど。本当にまたここに来るかは優磨くんの正体を確かめてから、だとは本人には言えない。
「じゃあね」
ラックに雑誌を戻すと出口を向いた。
「ありがとうございました」
無邪気な声が私の背中に突き刺さった。
自宅のドアを開けると靴を脱いで一直線に自分の部屋に入った。
「おかえりー」
キッチンから母の声が聞こえたけれど返事をする余裕もない。
子供の頃から今でも置いてある学習机の引き出しを開けて、奥からあるものを取り出した。私を悩ませるあの時の披露宴の席次表だ。
『寿』と書かれた台紙をゆっくりめくると、新郎新婦の写真とプロフィールが載っている。今よりも少し若い浅野さんの顔写真。その右には新婦の顔写真がある。この数年忘れたくても忘れられない顔。さらにめくって『城藤優磨』の名前を探した。そうして見つけた。『新婦弟 城藤優磨』の文字を。何度も何度も繰り返し目で見て指でなぞる。
優磨くんが美麗さんの弟だなんて……。
当時は優磨くんが弟だなんて知らなかったし顔も覚えていなかった。改めて見た数年前の新婦の写真と優磨くんはよく似ている。
『俺もこのバンドは嫌いです』
そう言った理由は言われなくても理解した。
もう私は浅野さんどころか優磨くんにさえも後ろめたさを感じる。浅野さんを幸せにしたいと決めた気持ちが、美麗さんの弟との接近で揺らぐ。私があの結婚をぶち壊した隠れた一人であるといつかバレてしまいそうで怖い。過去はいつまでも私に付き纏い、解放してはくれないのだ。