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「はい……かしこまりました。武藤に伝えます……失礼致します」
緊急の電話を終えて受話器を置くと、私は直矢さんのデスクからUSBメモリーを持って立ち上がり、外出したばかりの直矢さんを追ってエレベーターに乗った。数分前にオフィスを出た直矢さんはまだビルの近くにいるかもしれない。エレベーターを下りるとエントランスの扉から直矢さんが外に出ていくのが見えた。
「直矢さん!」
思わず下の名前で呼んでしまった。今エントランスには誰もいないから直矢さんと呼んでも大丈夫だと思った。
私が呼んでも直矢さんは振り返ってくれなかった。まっすぐ前を見て私の声が聞こえていないようだ。前を向いたまま立ち止まった直矢さんの元に行くと、ビルの前に立つ女性を見て私は目を見開いた。直矢さんと向かい合って立っていたのは愛美さんだった。
「愛美さん……」
思わず呟いてしまうと2人は声を出した私を見た。直矢さんは不機嫌そうな顔をして、愛美さんは困った顔をしている。相変わらずサラサラな髪を風になびかせ、先日と違う色のパンツスーツを着こなしているとまさに仕事のできる女という印象を強くしている。
「何かご用ですか?」
直矢さんは無表情で愛美さんに抑揚のない声をかける。
「あの、七夕祭りの作業腕章をお渡しに来ました……」
愛美さんは白い封筒を直矢さんに渡した。
「たったこれだけのためにわざわざ?」
直矢さんはわざと愛美さんを不快にさせようと言葉を選んできつい言い方をしているようだ。
「あと明後日からの作業の許可証も。スタッフさんにお渡しください……」
「ありがとうございます」
銀翔街通りのロゴマークの入った厚い封筒を受け取った直矢さんは私を振り返った。
「戸田さん、僕を追ってきてどうしたの?」
「ああ、そうでした……」
私は直矢さんに近づきUSBメモリーを渡した。
「たった今連絡があって、この後の打ち合わせにこれを持ってきてほしいそうです」
「わかった。ありがとう」
直矢さんは私の目を見て微笑んだ。その顔は愛美さんを見る目とはあまりにも違って私の方が戸惑ってしまう。愛美さんは私たちを複雑そうな表情で見ている。
「堀井さん、まだ何かご用ですか?」
愛美さんがその場にいることを思い出したように直矢さんは愛美さんに向き直った。その顔は再び無表情になっている。
「直矢、話がしたいの」
「何ですか?」
「あ、じゃあ私はこれで……」
2人に気を遣いその場を離れてビルの中に戻ろうとする私を「美優」と直矢さんが呼び止めた。
「まだここにいて」
直矢さんにそう言われ驚いた。愛美さんの前で私を呼び捨てにするとは思わなかったし、この場に引き留めておくとは直矢さんにしては不誠実な行動だ。驚いたのは愛美さんも同じのようで、直矢さんではなく私の顔を凝視した。
「直矢、2人だけで話がしたいの」
愛美さんは私が邪魔だと言いたいのだろう。私だって直矢さんと元カノの話をそばで聞きたくはない。話の内容はものすごく気になるけれど。
「今ここで言って構いません。彼女には聞かれてもいい」
愛美さんにはっきり告げた。直矢さんは構わなくても私も愛美さんも困ってしまう。
「そう……」
愛美さんは小さく呟くと直矢さんを見た。
「電話番号変わってないんだね。ずっと電話かけていたのにどうして出てくれないの?」
愛美さんの言葉に私は目を見開いた。愛美さんが直矢さんに電話をかけていることが不安になる。直矢さんを振ったという愛美さんから連絡を取る理由はなんだろう。
「僕は特に話すことがないですから」
「私は直矢とやり直したい!」
愛美さんは強い声で言葉を吐き出した。
「偶然再会しただけでそんなこと言うなんて都合がいいですね。どうせその程度の気持ちでしょう」
「もう1度直矢と付き合いたいの!」
顔を真っ赤にして愛美さんは訴えた。それに対して直矢さんは変わらず無表情を貫く。
「勝手ですね。僕が重たいって離れていったのは堀井さんじゃないですか」
直矢さんは声に抑揚をつけないで愛美さんを責める。感情的にならないよう意識しているかのようだ。
「私が間違ってた……」
愛美さんは必死だ。その声から直矢さんと別れたことを後悔しているのを感じる。
「私を本気で愛してくれるのは直矢だけだって気づいたの」
「本当に勝手だね。今更僕にその気はないから」
「直矢……」
直矢さんはよほど愛美さんとの過去に傷を負ったのだろう。私が過去を聞いたときの印象以上に直矢さんは愛美さんとの別れにトラウマを抱えたのだ。
直矢さんは愛美さんを睨みつけていると言っていい。私が今のように直矢さんに睨まれたらショックで動けなくなるだろう。綺麗な顔だから怒ると余計に怖いのだ。けれど愛美さんは直矢さんに怯まない。
直矢さんにすがる愛美さんは美しかった。今にも泣きそうな顔なのに見入ってしまう。直矢さんと並ぶと美男美女でお似合いだ。2人のそばにいると私の居場所はないのだと思わされた。
「これ以上話すことがないならお引き取りください」
ますます泣きそうな顔になる愛美さんに直矢さんは冷たく言い放つ。こんなにも他人に冷たい直矢さんは初めてで私も泣きそうになる。
「美優、もう戻っていいよ」
直矢さんは私に優しく言った。愛美さんとのあまりの態度の違いに私の足は動かない。
「美優」
再度名を呼ばれ我に返ると、私はビルまで足を無理矢理動かした。
「では、僕もこれで」
直矢さんはその場を立ち去ろうと1歩踏み出した。
「直矢……」
愛美さんの切ない声にも直矢さんは動じない。
「会社にまで来て仕事以外の話をされるのは不愉快だ」
すれ違い様に愛美さんに言葉を吐き捨てた。潤んだ目を見せる愛美さんを振り返らず、平然と通り過ぎて駅までの道を歩いていった。
呆気にとられビルのガラスの扉に手をかけたまま直矢さんを見送っていた私は、愛美さんがこっちを見ていることに気がついた。その目は私と直矢さんの関係を不審に思い、ほのかに敵意を向けているようだった。
「し、失礼します……」
私は慌ててビルの中に入りエレベーターのボタンを押した。ドアが開くまでの数十秒が長く、ガラスドア越しに愛美さんの視線を痛いほど感じる。開いたドアに逃げるように乗り込むとボタンを連打して壁に寄りかかった。
直矢さんとやり直したいと告げた愛美さんが怖かった。そして、まるで過去に恨みをぶつけたような直矢さんも怖かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
銀翔街通りの飾り付け例を書き記したマップを作業員の人数分コピーすると、先に銀翔街通りで作業を監督する直矢さんの元へと届けた。
「うわー、綺麗ですね」
通りを見渡すと街灯に吊るされたカラフルな飾りが風になびき涼しい印象を与える。
「銀翔街通りが全てこうなれば本当に綺麗でしょうね」
直矢さんも街灯を見上げて微笑んだ。
「当日が楽しみです。私も来ようかな」
七夕祭りの当日に直矢さんは1日銀翔街通りにいることになる。土曜日のその日、私は休みだけれど銀翔街通りを歩くのもいいかもしれない。
「では僕と一緒に行きましょう。といっても僕は仕事ですが」
「お手伝いしますよ。でも休憩時間は一緒に歩いてくださいね」
「もちろん」
以前山本さんの担当だったときは仕事にやりがいはあったけれど今ほど熱心に打ち込んだことはなかった。反対に直矢さんと組んで大きいイベントに携わると裏方でも楽しくて仕方がない。愛しい恋人がそばにいるということが大きいのだけれど。
「僕はこれから古明橋公園の方に行きます。美優は戻ってホームページ用の作業写真を撮ってデザイン課に回してください」
「わかりました」
直矢さんを見送って街灯の飾りをデジカメで撮り、植え込みに花を活ける作業員の背後からも数枚撮った。
「お疲れ様です」
声をかけられて振り返ると愛美さんが立っている。
「あ……お疲れ様です……」
私の不安の種が予告なく目の前に現れて驚いた。先日会社の前で修羅場を経験してから私は愛美さんが一気に苦手になってしまった。
「戸田さん……でしたよね」
「はい……」
「先ほど他の連合会職員に見せていただきましたが私にもマップを1枚くださいますか?」
「ああ、はい」
私は銀翔街通りの作業マップを愛美さんに渡した。
「ありがとうございます。見積書を見て上から許可が出ましたので請求書をお送りください」
「かしこまりました。経理に伝えます」
話しは終わりかと思ったのに愛美さんはじっと私を見ている。綺麗な顔に見つめられて居心地が悪くなる。
「……他にも何かございますか?」
恐る恐る聞いた私に「今から少しお時間いただけますか?」と愛美さんは言った。
「はい、大丈夫ですが……何か飾りに変更があるのでしょうか?」
「いいえ、そうではなく個人的なことで」
そう言う愛美さんは気まずそうに目を伏せた。用件の大体の想像がついて、時間は大丈夫と言ったことを早くも後悔した。