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奥様はもちろん反対だろう。それに慶一郎さんも、会社的には聡次郎さんは愛華さんと結婚した方が助かるだろうに。
「愛華さんと結婚した方が龍峯にはいいことだな。でも愛華さんが会社のためになっても、俺の最良のパートナーにはなれない」
「私でも良いパートナーになる自信はないんだけど」
「あんな世間知らずなお嬢様はごめんだよ。俺は自分の力で生活できて、同じ目線で笑って一緒に生きてくれる人がいいんだ。俺に黙って従うだけの人じゃなくて」
「強引に従わされてきましたけど」
私の文句に聡次郎さんはわざと言い返さない。
「嫌なことも無理矢理やらされたし、ご飯作れだの休日に付き合えだの」
口を尖らせる私に聡次郎さんは「従うけど黙ってないだろ」とツッコミを入れる。
「梨香の全部がいいんだ。そのままの梨香が。いつも全力で、弱音を吐いても立ち上がる梨香に俺は励まされてきた」
聡次郎さんがそんな風に私を見ていたなんて嬉しい。
「なんで俺が梨香に婚約者のふりをしてって頼んだと思う?」
「気が強そうだと思ったからでしょ?」
私を強気な性格の店員と勘違いしたからだ。でも聡次郎さんは首を振った。
「それだけじゃないよ。俺が梨香に声をかけた日、カフェの前で梨香がお客さんに話しかけてたのを覚えてるか?」
記憶を辿った。あの日聡次郎さんに出会う前、私はカフェの仕事を終えて帰るところだった。カフェの前で常連のお婆ちゃんに会って話をした。
「思い出したけど……それが?」
「実はあの時からそばで見てたんだ。梨香ももちろんだけど、お客さんも梨香と話すのが嬉しそうでさ。その様子を見て梨香の人柄がわかった。気が強いって話でも、仕事に一生懸命でお客さんを大事にする子なんだろうなって思った」
知らなかった。あの時から聡次郎さんに見てもらえてたんだってこと。
「もっと梨香を知りたくて、そばにいたいと思った。梨香に好きだと伝えるもっとずっと前から梨香が好きだったよ」
涙が溢れて止まらない。
「全然知らないよそんなこと……だって聡次郎さんずっと意地悪だった……」
「俺さ、今までまともに恋愛してこなかったんだよ。家柄目当てで寄ってくる女ばっかだったし。素直に気持ちを出す方法がわからない」
聡次郎さんは「明人にも散々怒られた」と困った顔をした。月島さんは聡次郎さんを理解している。聡次郎さんが素直になれないことも。
「付き合った女も母さんが金をちらつかせて追い払ったこともあった」
それは驚きだ。けれどあの奥様なら気に入らない相手はお金で遠ざけて解決しそうだ。
「これからは梨香に不自由はさせない。不安にさせない。絶対に幸せにする。だから家族になろう。俺を支えてほしい」
聡次郎さんの真っ直ぐな目から私も目を逸らさない。
「はい。よろしくお願いします」
そう言うとどちらからともなく顔を近づけ、今度は自然に唇を重ねた。
「ふっ」
聡次郎さんが突然笑った。
「どうしたの?」
「いや……梨香ってやっぱ嫉妬すると訳わかんない行動するよな」
「聡次郎さんには言われたくない!」
笑う聡次郎さんに私は顔を真っ赤にして言い返す。
嫉妬深いのはどっちだ。奇想天外な言動で振り回したのはどこの誰だ。
「仕方ないだろ。愛してるんだから」
「な……」
口をパクパクさせて言い返す言葉を探す。そんな私の口を聡次郎さんの唇が塞ぐ。
「っ……ん……」
侵入してきた舌が私の下を絡めとる。抵抗するのを諦めた私からやっと唇を離すと、「文句ある?」といじわるな顔をする。
文句しかない。そう言い返したいのに私の口は「愛してる」と囁いた。その瞬間もう一度2人の唇が重なった。
素直に気持ちをぶつけてくれた聡次郎さんをずっと支えていきたい。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
龍峯の最終日、ビルの中には立派なアレンジメントが社内のあちこちに残されているだけだった。愛華さんの姿はなく、花山さんに聞くと龍峯には来ないとだけ冷たく言われた。彼女はここで楽しそうに働いていた。私のせいで居辛くなったのなら申し訳ない気持ちになる。
奥様に結婚の報告をするために時間を作ってくれるよう聡次郎さんからお願いしてもらった。今夜慶一郎さんと共に奥様に報告をするつもりだ。もう何を言われても私たちの意志は固い。
開店準備を終え10時になった瞬間お店のシャッターを開けた。看板を外に出すと道路の向こうからお茶通のお客様である松山様が歩いてくるのが見えた。
「まずいっ」
思わず声に出して焦った。今日はお昼まで私1人でお店にいるので松山様のお相手は自然と私だけでやらなければいけない。悪いお客様ではないけれど、お茶に厳しい松山様にお茶を出すのは毎回緊張した。
「いらっしゃいませ」
目の前に立った松山様にお辞儀をした。
「おはようございます。今日は来客用のお茶を買いに来ました」
「ありがとうございます。どうぞ」
松山様を店内に入れるとお茶の準備をした。
試飲用の玉露の茶の葉を急須に入れ、分量のお湯を注ぐ。緊張しながらテーブルに茶碗を置くと松山様はイスに座りお茶を飲んだ。
再びお店の自動ドアが開き別の男性のお客様が来店された。
「いらっしゃいませ」
「この間お姉さんが選んでくれたお茶、おいしかったよ」
そう言ってお客様は笑顔で私のそばに来た。この方は以前に私がお茶の好みを聞いて商品を選んであげた方だった。
「それはよかったです」
「また同じのをいただくね」
「ありがとうございます」
男性は同じ商品を購入して帰っていった。
一連のやり取りを見ていた松山様は「龍峯の従業員として様になってきましたね」と言った。珍しい褒め言葉に嬉しくなる。同時に今日が最後の日だと思うと寂しくなった。この仕事がいつの間にか大好きになっていた。
そのとき事務所のドアが開いて奥様がお店に入ってきた。風呂敷で包んだ小物を手に持ちながら奥様は私を見た。その目は敵意に溢れていた。まるで私が龍峯を滅ぼそうとする悪魔だとでも言いたげに。
「あら奥様、お久しぶりです」
松山様は奥様ににこやかに挨拶した。
「松山様、お久しぶりでございます」
奥様は松山様に気づき一礼するとテーブルに近寄った。
「奥様、本店にはいい従業員がおりますのね」
松山様の言葉に奥様は首を傾げた。
「この方、三宅さんといったかしら。来店する度にお茶の味が美味しくなっていきますの」
今度は私が目を見開く番だった。
「若いしお茶も美味しくないし、この方が本店に勤めて大丈夫かしらと最初は思っていたのですけど、相当学ばれたのでしょうね。今いただいた玉露も大変美味しいです」
「あ、ありがとうございます……」
私の声が震えた。あまりの嬉しさに顔が赤くなり目頭が熱くなる。まさか松山様にここまで褒めてもらえる日がくるとは思わなかった。
「お褒めいただいてありがとうございます」
奥様は松山様に頭を下げた。私からは奥様の顔を見ることはできない。私を龍峯に相応しくないと言った奥様は今何を思っているのだろう。
松山様は玉露と龍清軒を買って帰られた。姿が見えなくなるまでお辞儀をしていた奥様は顔を上げると私を振り返った。
「梨香さん、お話がありますの」
「はい。今ですか?」
「今です」
奥様はそう言うと事務所に繋がる扉を閉めて奥にいる花山さんに会話が聞こえないようにした。
「お座りになって」
お店の真ん中のテーブルに座った奥様は私を向かいに座るように促した。
「失礼します」
営業中の今いつお客様が入ってくるかわからないお店の中で話とは一体なんだろうか。
「梨香さん、これを受け取ってください」
奥様は手に持った風呂敷を広げると中から封筒が出てきた。
厚みのある封筒をテーブルに置かれた瞬間、あまりのショックに言葉を失った。封をされていない封筒の中身は手に取らなくても見えてしまう。この中には札束が入っている。