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昨夜から電話がひっきりなしにかかってくる。その全ては聡次郎さんからだ。けれど私が応答することはない。何も話したくないと思ったし、何を話したらいいかわからないからだ。
明日は龍峯最後の出勤日だ。聡次郎さんとの会話をもう想像できないのに最低限挨拶だけでもしないといけない。それがとても憂鬱だ。
カフェの閉店作業を終えて駅のロータリーを通るとクラクションが鳴らされた。驚いて鳴らした車を見ると、運転席から顔を出した聡次郎さんが私の名を叫んでいる。
「梨香!」
「うそ……」
その顔はあまりにも必死で、見たことがないほどに焦っている。
「梨香!」
運転席から聡次郎さんが叫んだ。何回も電話があったのに全て無視した。だから迎えに来たのだろう。
心配してくれたのかと思うと嬉しい。聡次郎さんの中で私はまだ存在しているのだ。
「梨香!」
何度目かの聡次郎さんの大声に、駅前にいる人の視線が集まってきた。
「梨香! 来て! 頼むから!」
私宛の懇願だと気づいた人たちが好奇の眼差しを向ける。珍しく焦っている聡次郎さんを無視することはできなくて、私はゆっくり車に近づいた。
「梨香……」
運転席に近づいた途端切ない声で名を呼ばれ、聡次郎さんを不安にさせたことに涙が出そうになる。
「連絡しろよ。どこにいるか心配するだろ」
「………」
「もしかしてさ、出ていった?」
肯定したものか迷った。確かに出ていった。でもそれをはっきりと告げると本当に終わってしまうのだ。自分から出て行ったのに、終わらせたくないと願ってしまう。情けないことに、聡次郎さんが来てくれて嬉しい。
「もう戻らない気?」
「………」
立ち尽くす私の後ろを車が通り抜けていった。
「取り敢えず乗ってよ。そこに立ってると危ない」
迷ったけれど確かに危ないので助手席に乗った。
「部屋の荷物が減ってるのに気づかないと思った?」
「………」
「連絡もない。電話にも出ないじゃ心配するだろ」
「ごめんなさい……でも……」
聡次郎さんが愛華さんと食事しているから、私は不安になってしまったのだ。
「聡次郎さんこそ……」
私は絞り出すように思いをぶつけた。
「聡次郎さんこそ、私を心配させるようなことしてるじゃない……」
聡次郎さんは無言で私の言葉の続きを待っている。
「昨日、愛華さんと食事してるの見てたんだから」
「あれは……」
「不安なの。愛華さんの方が正式な婚約者だから……」
「梨香」
「2人が食事をしてるだけでも私……」
「もうそれ以上何も言うな」
突然聡次郎さんが身を乗り出し、顔を近づけ私の唇を塞いだ。私を助手席のシートに押し付け動きを封じ、黙れとでも言うように激しく唇を貪る。
「そう、じろうさん!」
ぎゅうぎゅうと肩を押し退けるとやっと唇が解放された。聡次郎さんは怒っているのか悲しんでいるのか複雑な顔をして深い溜め息をついた。
「あれは愛華さんときちんと婚約を解消するための話し合いの食事だよ」
「え? でも……楽しそうだったよ?」
お店の外から見た愛華さんは笑顔だった。聡次郎さんだってあの時笑顔を久しぶりに見た。
「会っていきなり重い話はできないだろ。お互いの誤解とか気持ちを話し合って円満に解消できたよ」
そうだったのか。
ほっとしたのと同時に嬉しさが込み上げる。
「なのに家に帰っても梨香はいない。いつまで待っても帰ってこない。ほとんどの服は残ってないし電話にも出ない。本当に焦ったよ」
「ごめんなさい……」
「謝るのは俺の方だ。梨香が不安になってるのは知ってた。でも俺なりに梨香を大事にして、信じてもらってるつもりだった。そのつもりが間違ってた」
聡次郎さんの懺悔に涙を堪えられず頬を伝った。
愛情は感じていた。俺を信じろと言ってくれた。それでも不安に耐えられなくて逃げてしまった弱虫は私だ。
「最近の聡次郎さん、心ここにあらずって感じだったから、愛華さんを好きになったのかと勘違いして……」
「それもごめん。今新店舗の準備で忙しくて。俺は梨香が大切なんだ。守るって言ったろ? 会社のためでもない、親のためでもない、俺のために梨香が必要なんだ」
「うん……」
「前に梨香は俺に信じてもらえないことが嫌だと言った。俺だってそうだ。梨香に信じてもらえなかったことがショックだよ」
「ごめんなさい……」
聡次郎さんの言う通りだ。私を信じてと聡次郎さんに言ったのに、聡次郎さんの私への気持ちを疑った。こんなにも大好きなのに、劣等感が邪魔をした。
「梨香が嫌なら俺も龍峯を離れてもいい」
「え?」
「もう恋人もやめよう。家族になるんだ」
「聡次郎さん、それって……」
「結婚しよう梨香」
思いもよらぬ言葉に胸が熱くなる。
「結婚……」
「そう。俺と梨香、夫婦になるの」
聡次郎さんはもう見慣れたイタズラっぽい笑顔で私を見返す。
「嫌か?」
私は思いっきり頭を左右に振った。
「嫌じゃない! 私も聡次郎さんと結婚したい!」
車外にも聞こえそうなほど大きな声に聡次郎さんは笑った。
「でも皆さん許してくれるかな?」
「俺自身が選ぶ人生だ。俺の好きなようにさせるさ。少なくとも兄さんは喜んでくれる。俺が龍峯を離れるのは困るだろうけど」
龍峯を離れる。その言葉に私は心配になった。
「聡次郎さんは龍峯を離れたいの?」
「梨香がそう望むのなら。2人一緒なら俺も龍峯を離れて他の会社に転職する。あの家を出てもいい。別の部屋を借りて2人で暮らそう」
驚いて言葉が出ない。家を出てもいいと、私を選んでくれると改めて言ってもらえると嬉しい。けれど間違っていることもある。
「私は……聡次郎さんは龍峯を離れちゃだめだと思う」
「どうして?」
「だって……聡次郎さん、本当はお茶がすごく好きだよね?」
私の言葉に聡次郎さんは目を見開いた。
「お茶が嫌いだって言ってたけど毎回私にお茶を淹れさせるし、仕事だって熱を入れてる。龍峯に戻ってくるのも本当はそんなに嫌じゃなかったのかなって」
聡次郎さんはいつだってなかなか本心を見せない人だから、これも私の憶測だけど。
「ふっ……梨香はすごいな」
すごいと言われる意味がわからなくて聡次郎さんの顔を見た。
「結局俺の判断は間違いじゃないってことだな」
「なんのこと?」
「俺のことを1番理解してるのは梨香ってこと」
そう言われても言葉の意味はわからない。
「俺の父は子供の頃から兄さんを後継者として教育してきた。お茶の勉強をさせて茶農家に修行にも行かせた。でも俺には一切何も教えてくれなかった」
聡次郎さんの顔は寂しそうだ。
「本当はその頃からお茶が好きだったの?」
「ああ。兄さんが羨ましかったな。俺が龍峯を継ぎたいと思ってたんじゃなくて、父さんや兄さんの助けになりたかった」
嫌々龍峯に戻ってきたという態度だったけれど、聡次郎さんはいつだって慶一郎さんを敬っていた。
「梨香の言うとおり、お茶は好きだよ。今更照れくさいし、散々嫌いな風を装ってたから家族は誰も知らない」
聡次郎さんは私の手を握った。
「気づいたのは梨香だけ」
「じゃあ私は聡次郎さんに好きな仕事を続けてもらいたい。龍峯から離れちゃだめ。慶一郎さんを支えてあげなきゃ」
聡次郎さんは微笑んで私の手をぎゅっと握る。
「じゃあ俺を支えるのは梨香だな」
「私でいいの?」