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もしかして愛華さんが化粧室に行くと言って聡次郎さんに話しかけに行ったときだろうか。だからあの後愛華さんは暗い顔をしていたのかもしれない。
「もう会うこともないし俺の顔なんて見たくないだろうと思ってたけど、まさか来るとは驚いた」
「聡次郎さん、もしかして愛華さんの気持ちを知らなかったの?」
「ん? 親同士に無理矢理結婚させられそうになって、俺と同じで怒ってる?」
本気で分かっていなそうな言葉に私は呆れた。今まで聡次郎さんは愛華さんの何を見ていたのだろう。ここに通うことの全部が強制だったわけじゃない。
「聡次郎さんって本当に鈍感……」
むすっとした聡次郎さんを私は潤んだ目で見つめた。
「愛華さんは私と同じなんだよ」
この言葉で聡次郎さんも理解したようだ。一瞬目を見開くと「そうか」と私の体を引き寄せた。
「私……傷つけちゃった……」
「それは俺も同じだから」
私は聡次郎さんにもたれかかって肩に頭を載せた。
ごめんなさい。愛華さんを傷つけてごめんなさい。聡次郎さんのそばにいてごめんなさい。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
近頃の聡次郎さんは忙しいのか家に帰る時間も遅くなり、疲れが顔に出るようになった。時間があると寝てしまうし、話しかけてもボーとしている。
「大丈夫ですか?」
「……ああ、うん。平気」
「お茶淹れましょうか?」
「うん」
茶の葉を急須に入れながら聡次郎さんを盗み見ると、ソファーに横になり天井を見つめている。今聡次郎さんがどんな仕事をしているのかはバイトの私にはわからない。聞いても「秘密」と言われてはそれ以上聞けない。
疲れが溜まっているのはもちろんだけど、何かを悩んでいるようではあった。
愛華さんのこと、言わなきゃよかったかな……。
私と同じで愛華さんも聡次郎さんが好きなのだと言ったから悩んでしまったのではと不安になる。聡次郎さんはずっと愛華さんも嫌々婚約させられたと思っていた。でもそうじゃないと知ったら後悔しているんじゃないかと。
カフェに出勤し、お昼過ぎまでの短い時間勤務した。風邪をひいてからカフェでの勤務時間を減らしたけれど、龍峯での業務も残すところあと1日になってまたカフェに専念できる。夏休みが終わると子供がいる主婦パートさんが勤務する時間が増えてきて、私がいなくても龍峯本店は回るのだ。
夕方までには聡次郎さんの部屋に帰ると連絡してはいた。その連絡をしたところで聡次郎さんがいつ帰ってくるのかはわからないけれど。最近お昼は出先で食べることもある聡次郎さんは、今日もどこかで済ませてくれたと思っていた。
古明橋の駅に着き龍峯のビルまで歩いていた。ランチタイムを過ぎたけれど人通りは多くてどこの飲食店も混んでいる。自分の昼食はカフェの賄いで済ませた。けれど古明橋のカフェやレストランはオシャレなのに価格も安く、外に置かれたメニューの写真を見るだけでお腹がいっぱいなはずなのにまた食べたいと思えた。
イタリア料理店の扉の前に置かれた黒板のメニューを見ていたとき、ふと店内に視線がいった。
ガラス窓の奥に見えた店内のテーブルに座る1組の男女を見つけてしまった。それは遠くからでもはっきりと誰なのかわかった。モデルのように整った顔で微笑む愛華さんと、その向かいには聡次郎さんが座っていた。
その姿に胸を締め付けられるほどの衝撃を受けた。聡次郎さんと愛華さんが食事をしている。普段のランチタイムは私と居る特別な時間のはずだ。その時間を今愛華さんと共にいる。まるで恋人同士に見えるほど自然で、絵に描いたようにお似合いの2人だった。聡次郎さんの横に私がいるよりもずっと。
私と聡次郎さんはお互い忙しくて外食したのは叔母さんのお蕎麦屋さんに行った時だけだ。デートをしたことなんて付き合う前だけ。なのに2人は楽しそうに食事をしていた。愛華さんが笑うたび聡次郎さんも笑う。愛華さんが話すと聡次郎さんも相槌を打つ。
忙しい合間を縫って愛華さんと会っている。やはり聡次郎さんは愛華さんに気持ちが動いてしまったのだ。どうしようもない寂しさであふれる。
愛華さんが聡次郎さんの部屋に来た日に「申し訳ありませんでした」と私に謝罪した。私と聡次郎さんの関係を知って邪魔したことへのものだと思った。けれどあの時の涙を愛華さんは違うエネルギーに変えたのだろう。
龍峯から私が消えれば聡次郎さんは愛華さんのところに行ってしまう。お茶も、聡次郎さんも、私が大事にしているものを愛華さんが手に入れる。
耐えられずすぐにその場を離れた。聡次郎さんは愛華さんに興味がないと言っていた。その言葉で少しは気持ちが軽くなったのに、2人の姿を見てしまったら消そうとした嫉妬心はもう消えてはくれない。
聡次郎さんの部屋に戻って掃除をした。
私のアパートの何倍も広い部屋の床を掃除してくれるのはお掃除ロボットだけど、トイレやお風呂を掃除できるのは私だけだ。
聡次郎さんも家事をやってくれるけど、最近は忙しくてほとんど私だ。今日はいつも以上に念入りに、隙間や棚の上の見えないところも丁寧に拭いた。最後に聡次郎さんが朝起きてからそのままになっている乱れたベッドを整えた。
今までお世話になった分だけ、こんなことしかできないけれど恩を返したかった。
このベッドで何度愛し合っただろう。どれほど聡次郎さんで満たされただろう。重ねた肌の感触も、囁かれた愛の言葉も全てがはっきり思い出せる。
ボストンバッグに入る限りの荷物を詰めて聡次郎さんの部屋を出た。
もっと早くこうしていれば誰も傷つけなかった。私がいなかったら全部丸く収まっていた。聡次郎さんと愛華さんは結婚して、奥様は怒ることなく安心していただろう。聡次郎さんと喧嘩しなくても済んだのだ。
彼からの愛を知ってしまったから出ていくことは辛いけれど、彼のそばに居ることはもっと辛い。最初から最後まで聡次郎さんに振り回されっぱなしだ。これ以上傷つく前に早く離れなければ。
聡次郎さんの方から捨てられたら、私はきっと立ち直れない。