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「俺は栄のお嬢様とは結婚しない」

「聡次郎!」

奥様は顔を真っ赤にして聡次郎さんを怒鳴りつける。聡次郎さんは無表情で母親を見据えていた。

「あの!」

思わず2人の喧嘩に割って入った。

「私は龍峯を辞めます」

「梨香、なに言ってるんだ?」

「もう決めました」

うんざりだ。親族間の争いに巻き込まれるのも、仕事とはいえ理不尽に責められることも。

「龍峯を辞めるということは、聡次郎との結婚も白紙にするということかしら?」

奥様の問いにも「はい」とはっきり答えた。

「梨香待ってくれ! 俺は……」

「その代わり、聡次郎さんの望まない相手との結婚もやめていただけますか?」

この言葉に奥様は私を睨みつけた。けれど覚悟を決めた私はもう奥様を怖がったりはしない。

「聡次郎さんは私なんかをそばにおきたいと言うくらいです。本当にお見合い相手の方とは結婚したくないのでしょう。ならば私が引く代わりに奥様も引いてください」

奥様の決めた相手との結婚が嫌なら、それだけは止めなければ。聡次郎さんには生活が厳しいときに助けられた。その恩はきちんと返したい。

「自分が何を言っているのか分かっているのかしら?」

「はい」

奥様から目を逸らさずにはっきりと答えた。

頭がぼーっとして体が熱い。今すぐ寝転がりたいけれど意識はしっかりしている。聡次郎さんだけは守らなければ。

「梨香、もういい!」

聡次郎さんが怒っているのはわかる。でも早くここから出て家に帰って寝たいのだ。

「俺が望むのは梨香なんだ」

声が切実だ。私を真っ直ぐ見つめる視線を痛いほど感じた。
けれど聡次郎さんの顔を見返すことができない。ここで奥様から視線を外して聡次郎さんを見たら負けてしまうような気がした。

「いいでしょう。聡次郎の望むようにいたします」

奥様が私から視線を外して溜め息をついた。

「梨香さん、あなたは本当に龍峯には相応しくありませんね」

「私も同感です」

奥様は私に呆れている。老舗企業の先代社長夫人に対する態度じゃないことはわかっている。
けれど今時お見合いだの親族経営だのと考えが古いのだ。だから龍峯が全国進出できず関東圏止まりなのではないか。長男夫婦が子供ができないことに悩んでいるのにプレッシャーをかけるから、ストレスで余計に子供ができないかもしれない。次男に無理矢理お見合いをさせようとするから関係ない私がこうして巻き込まれている。私を嫌っている上司と働くのも嫌だ。
奥様の言うとおり私は龍峯に相応しい人間じゃない。老舗の考えにはついていけない。

「花山さんが次のシフトも作ってしまったでしょうから、梨香さんが辞める時期は検討します」

来月上旬のシフトは出来上がっていたのを確認している。仕方がないから来月いっぱい勤めて退職してやる。

「それでいいです。お世話になりました」

形だけの挨拶をして会議室を早足で出た。
エレベーターがなかなか止まらない。業を煮やした私はエレベーターを諦め階段で下りた。

気持ち悪くて今にも倒れそうだ。麻衣さんに言って早く早退しなければ。

3階の踊り場まで下りたとき、「梨香!」と聡次郎さんが私を呼ぶ声が階段に響いた。

「待て!」

聡次郎さんが勢いよく下りてくる足音がする。だけど待っていられない。早く帰りたいのだから。

「梨香! 行くな!」

体が熱い。手のひらが触れている手摺りが冷たくて気持ち良い。

「行くな!」

すぐ後ろで聡次郎さんの声が聞こえて腕をつかまれた。振り払おうとした瞬間意識が薄れ、足の力が抜けて焦ったけれどもう立っていられない。

「梨香!」

体が腕に包まれたのを感じて目を閉じた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



目が覚めると見慣れない天井の照明に困惑した。
体には毛布がかけられ、額には濡れたタオルのようなものが載せられている。体を起こそうにも力が入らず、全身だるくて意識が朦朧とする。
頭だけを動かして部屋を見回すと窓からは強い西日が差し込んでいた。その外の景色には見覚えがあった。
足を向けた先にある引き戸の隙間から見える奥の部屋は、これまた見覚えのあるリビングだ。私が休憩時間に何度も座ったソファーが見える。

どうしてここにいるのだろう。会議室を出て階段を下りたところまでは覚えている。それから足に力が入らなくなって、倒れると思ってから記憶がない。
あのとき聡次郎さんに触れた。では聡次郎さんにここに運んでもらったのだろうか。

「そうじろうさん?」

想像以上に声が出しにくく、私は掠れた声で部屋の主を呼んだ。リビングに聡次郎さんだろう気配は感じるけれど、私が寝ている寝室に来てくれる様子はない。
頭を動かすと、今寝ているベッドは私の家のベッドよりもかなり大きいダブルサイズだろうと思われた。さすがに寝室には入ったことがなかったから、実際に寝てみると羨ましいほど寝心地がいい。
1人暮らしなのにこのベッドのサイズは無駄だ。今の私と同じように聡次郎さんはこのベッドの中央に毎日1人で寝ているとは贅沢だ。

なんとか腕に力を入れて上半身を起こした。頭が重くて再びベッドに倒れそうだ。けれど帰らなければ。これ以上ここにいたらまた聡次郎さんと喧嘩してしまう。

体にかけられた毛布をめくると、自分がまだ龍峯の制服を着ていることに気がついた。緑色のエプロンはつけていないけれど、シャツに黒のパンツを穿いたままだ。

ベッドから下りて立ち上がろうとすると足に力が入らず、そのまま床に勢いよく膝を打ちつけた。上半身はベッドにもたれ掛かる。その音で聡次郎さんは私が起きたことに気がついたのだろう。寝室の引き戸が開いて顔を出した。

「お前何やってるんだよ」

頭上から呆れた声が降ってくる。てっきりバカにしたような顔をしていると思ったのに、その顔は私を心配そうに見つめて駆け寄ってきた。

「寝てろよ」

「でも……」

立ち上がろうとする私の脇に聡次郎さんの腕が忍び込む。膝の裏にも手を当てられそのまま持ち上げられた。

「聡次郎さん、ちょっと!」

慌てたけれど私を両腕で抱えたまま再びベッドの上に寝かされた。

「大人しく寝てろ」

「帰ります……」

「お前バカか。熱があるんだぞ」

毛布を口が覆うくらいまでかけられたから、めくり返して抵抗した。

「帰ります。これ以上迷惑かけられない……」

「迷惑なんて思うかよ。心配なんだよ梨香が」

ベッドの横に膝をついた聡次郎さんは心配そうに私の顔を覗き込む。珍しいその顔にますます申し訳なさが湧いてくる。

「自分が熱があるの自覚してるだろ?」

「………」

もちろん自覚している。もう何日も体調が悪かったから、ついに高熱が出たのだと理解した。
反論せずにめくった毛布を自分で口元までかけ直すと、聡次郎さんは微笑んで私の頭を撫でた。

「聡次郎さんが運んでくれたんですか?」

「そうだよ。エレベーターまで抱えてこのベッドまで運ぶの大変だったんだぞ。お前重たいし最悪だったよ」

「重たくないし!」

バカにしたように笑う聡次郎さんは、言葉とは裏腹に余裕が感じられた。背が高く程よく筋肉のついていそうな体形だから力はありそうだ。今だって私を軽々とベッドまで載せたのだから。

「もう病院も閉まる時間だし、せめて微熱になるまではここにいろ。落ち着いたら家に送ってやる」

「はい……でも仕事は?」

まだ麻衣さんに早退すると伝えていないし、誰も私がここにいることを知らないかもしれない。

「麻衣さんには俺から言っておいたから問題ない。今日はもう早退したことになってる。さっき店に置きっぱなしのカバンを持ってきてくれたよ」

「そうですか……」

それなら心配ないけれど悔しさで涙が出そうだ。
龍峯での仕事もカフェの仕事も精一杯やってきたつもりでいた。ミスのない完璧な仕事はできないかもしれないけれど、せめて迷惑はかけないようにと。
でも実際は体調を崩して迷惑をかけている。奥様や花山さんに負けた気がして悔しい。自分で自分の体調を管理しきれなかったことは更に悔しい。

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