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「無理して出勤するなんてお前どんだけ負けず嫌いなんだよ」
「すみません……ご迷惑をおかけして……」
「言っただろ、迷惑だなんて思ってないよ」
私の頭を撫でる手は優しい。それほど私が弱っているということだ。そして私も聡次郎さんの優しさが嬉しいし、素直に甘えられることに驚いていた。
「梨香、頑張りすぎてないか?」
「そんなことはないよ」
「無理してるから体調崩したんだろ? 龍峯も辞めたいって言い出すし」
「それは……」
「俺との契約が重荷になってごめん。俺のせいで休みなく働かなきゃいけなくなったよな」
しゅんとなった聡次郎さんは指先で私の髪をくるくると弄ぶ。
「無理に働かせてごめん。嫌な思いをさせて悪かった」
「全然わかってない!」
思わず大きな声を出してから眩暈がして、口から大きく息を吐いた。「聞いて」と頭を撫でる聡次郎さんの手を掴んで腕を絡めた。驚いた聡次郎さんは腕を引っ込めるでもなく私の顔を見つめた。
「聡次郎さんが私を信じてくれないことが嫌だった」
霞んだ視界で聡次郎さんの顔を見て必死に訴えた。
「私が好きなのは月島さんじゃない……聡次郎さんなのに……」
絡めた腕に力が入らない。まだ体が熱い。今にも眠ってしまいそうだ。
「どうでもいい人にお弁当作ったりしない」
目頭が熱い。霞んだ目は更に聡次郎さんの姿をぼやかす。
「本当は辞めたくない。お茶の勉強がしたいし、聡次郎さんのそばにいたい!」
呼吸が荒くなる。眠くて目を瞑った。
もうどうにでもなれ。一生このベッドで眠るくらい図々しく迷惑かけてやる。
「梨香」
私の名を呼ぶ声に目を開けたとき、唇に柔らかいものが触れた。聡次郎さんの鼻と私の鼻がぶつかったけれど不快感はない。触れた唇が1度離れてお互い至近距離で見つめ合った。
交わされた2度目のキスは最初と比べ物にならないくらい優しくて、もう1度してほしいと思い目を瞑ると、3度目のキスが私の意識を奪った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目が覚めると部屋の電気は消えて薄暗かった。窓にはカーテンがかけられ、ベッドサイドに置いてあるデジタル時計は23時を過ぎている。
リビングから明かりが漏れているから、聡次郎さんがまだ起きていることはわかった。上半身を起こすとさっきよりは体が楽になっている。
ベッドから下りてリビングに行くと聡次郎さんの姿はない。
「聡次郎さん?」
呼んでみてもどこからも返事がなかった。
ひょっとしてまた仕事に行ってしまったのだろうか。私をここに運んだだけでも時間がかかって大変だったろうに、仕事がまだ途中だったのなら申し訳ない。
廊下に通じるドアが開いて聡次郎さんがリビングに入ってきた。
「あ、起きたの?」
お風呂から出てきた直後であろう聡次郎さんは上半身裸でスウェットを穿いている。
濡れた髪をタオルで拭きながら入ってきたその姿に思わず見とれてしまった。何かスポーツをやっていたのではと思えるほど筋肉のついた引き締まった体だ。
それを見て自分でもわかるほど顔が赤くなる。風邪だからと誤魔化せていればいいのだけれど。
「まだ寝てろよ。俺ももう寝るし」
意識がなくなる前の聡次郎さんとの会話を思い出した。むきになって感情をぶつけてからキスをしたのに、私と違って意識している様子が感じられない。
聡次郎さんは寝室に入るとクローゼットの引き出しを開けた。戻ってくるとTシャツを着ていて、手にはもう一組の着替えを持っていた。
「これに着替えな。それじゃ寝にくいだろ」
今着ているのは仕事着だ。確かにこれではリラックスして寝ることができない。
「あの、もう帰るから……」
「今から? だめに決まってるだろ。もう夜だぞ」
「でもさっきよりは楽になったし」
「いいから着替えろ」
聡次郎さんに着替えを押し付けられ寝室に押し込まれると引き戸を閉められた。
薄暗い寝室で渋々着替え、リビングに戻ると聡次郎さんは電気ポットでお湯を沸かしていた。
「何か食べるか? 麻衣さんがプリン買ってきてくれたんだけど」
「あ、じゃあいただきます」
「飲み物は? スポーツドリンク買ってくるか?」
「お茶が飲みたい」
「は?」
「聡次郎さんの淹れたお茶が飲みたい」
呆れた顔を向けられた。風邪を引いているのに、水でもスポーツドリンクでもなくお茶が飲みたいなんておかしいかもしれない。けれど私はお茶が好きだ。
「座ってろよ」
聡次郎さんが食器棚から急須を出したから、私はソファーに座って聡次郎さんを見ていた。
最初にここにきたときに出された龍清軒は濃くて苦いお茶だった。あれから聡次郎さんもお茶を淹れるのがうまくなった。
初めは私のことが嫌いなのだと思っていた。意地悪な言葉をかけられて怖いと思ったことは何度もあった。そんな聡次郎さんと一緒にいて安心すると思える日が来るなんて思わなかった。
どこまでも優しい聡次郎さんに戸惑う。喧嘩して強引にキスされて、かと思ったら看病されて優しいキスをされた。
この関係を発展させたいと聡次郎さんが思ってくれるなら私もそれに応えたい。
「ほら」
テーブルにマグカップが置かれ、その横にプリンのカップとスプーンが置かれた。
「ありがとうございます」
「変な組み合わせだな」
プリンと緑茶。風邪のときは普通なら組み合わせない。
「これには合わないけど、抹茶プリンはおいしそう。抹茶と牛乳とお砂糖。今度作ろうかな」
「こんな時でもメニューを考えてるのかよ」
「一応カフェ従業員でもありますから」
プリンを食べてお茶を啜る。体調が悪いのを忘れるほどリラックスできる。私にとってお茶は薬にもなるようだ。
「ごちそうさまでした」
流しにマグカップを置いて寝室に行くと、聡次郎さんはクローゼットから毛布を出した。
「じゃあ俺はソファーで寝るから」
「え? 聡次郎さんが寝室で寝てよ」
「病人をソファーで寝かせられるかよ」
「でも聡次郎さんの部屋だから……」
「いいって」
聡次郎さんは私の腕を引いてベッドまで連れて行くと、乱れた毛布を整えた。仕方なく私はベッドに入った。
「おやすみ」
リモコンで電気を消して寝室を出て行こうとした聡次郎さんの腕を「待って」と掴んだ。
「やっぱり私が向こうで寝るから」
看病してもらって泊めてもらうのにソファーで寝かせるわけにはいかない。
「ああもう!」