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「すみません……」

聡次郎さんに謝ったのは何度目だろう。いつか終わる契約期間中、あと何度謝罪の言葉を吐くのだろう。

「頼むから、デートしてるんだって思わせてよ。一緒にいるときは演技でも恋人になってほしい」

この言葉に泣きそうになるのを堪える。

「はい……」

短く返事をするのが精一杯だ。窓の外に顔を向けて潤んだ目を聡次郎さんに見られないように、じっと黙って耐えることしかできない。
カフェの仕事よりも龍峯の仕事よりも、聡次郎さんの婚約者でいる仕事は精神的な負担がかなり大きい。

「ごめん……言い過ぎた」

横で小さく聞こえた言葉に「いえ」と返事をして、そこからはより一層静かな車内での時間を泣かないように耐えた。







海が近い街の住宅地を進み、お店の駐車場に車が停車した。車から降りた目の前には古いけれど趣のある大きな日本家屋が建っている。

「ここ、食事するところ?」

「そう。蕎麦屋」

蕎麦屋と言われて入り口を見ると確かにメニュー表が置かれた台があり、門の上には木製の看板が掲げられている。

「おいで」

聡次郎さんは先ほどの気まずいやり取りを感じさせない穏やかな声で私についておいでと促した。
門をくぐり家屋の引き戸を開けると、中には確かにテーブルとカウンターがあり、厨房の中から「いらっしゃいませ」と1人の女性が顔を出した。女性は母親と同じくらいの年代で着物を着て、お店の佇まいに相応しい品のある女性だ。

「あら聡ちゃん!」

聡次郎さんの顔を見るなり女性は聡次郎さんに笑顔で近づいた。

「おばさん久しぶり」

聡次郎さんも笑顔を見せた。

「また大きくなったんじゃない?」

「いや、もう成長止まってるし」

「普通に食べにきたの?」

「そう。ここの蕎麦がやっぱ1番」

笑い合う2人の後ろで私だけが存在を忘れられているようだ。
聡次郎さんを「聡ちゃん」と呼ぶ女性はかなり親しい間柄であると感じ取れる。

「聡ちゃんの彼女?」

立ち尽くす私を見て女性は聡次郎さんに問いかけた。

「ああ、うん。そんなとこ」

複雑な表情の聡次郎さんの横を抜けて女性は私の前に立った。

「初めまして、聡次郎の叔母です」

「は、初めまして、三宅梨香と申します」

叔母さんではどうりで親しいはずだ。

「聡ちゃんが女の子を連れてくるなんて初めてよ」

嬉しそうに話す叔母さんに今度は私が複雑な顔をした。
聡次郎さんの婚約者を演じるということは、私を恋人だと信じている人を騙すことだ。今初めてそのことに気がついた。

「奥にどうぞ」

叔母さんに案内されて奥の部屋に通される。

「聡ちゃん、龍峯にやっと戻ったんだって? お義姉さん安心したんじゃない?」

「どうかな。今でも俺と兄さんにうるさく口出してるよ」

和室に入ると六畳ほどの部屋の中央に黒い木製テーブルが置かれ、その上に急須と茶碗と茶筒が置かれていた。

「聡ちゃんは天ぷら蕎麦でいいかしら?」

「うん」

「梨香さんは?」

「えっと……」

メニューを見て驚いた。私の金銭感覚では想像できなかった額の品が書かれている。
とりあえず1番安い品をとメニューを上下左右に見回していると、「こいつも天ぷら蕎麦で」と聡次郎さんが勝手に注文してしまった。

「え、あの……」

「うまいから梨香もそれにしとけって」

「わかった……」

聡次郎さんに従うと叔母さんは私たちの様子に微笑んだ。

「ちょっと待っててね」

そう言って襖を閉めていった。

「梨香、今混乱してるだろ」

聡次郎さんはテーブルに肘をついて私を笑った。

「こんな高級なお蕎麦屋さん入ったことがないから……」

デザートのアイスでさえ数字が大きい。和室に飾られた活け花も掛け軸も、装飾が施された部屋は私には場違いだ。

「ここは父親の妹夫婦のお店なんだ。このお茶も龍峯の」

聡次郎さんが指した茶筒の中には龍峯で扱っているお茶の葉が入っているのだろう。

「俺も今では滅多に来ないけど、蕎麦はマジでうまいよ」

「へえ……楽しみ……」

そう言いながらも私の顔は引きつっている。
聡次郎さんの家族に恋人だと嘘をつき、今も叔母さんに嘘をついた。甥っ子の恋人として来た私を歓迎してくれたであろう叔母さんに嘘をつくことは罪悪感が芽生える。今になって聡次郎さんと契約したことを後悔し始めている。

しばらくして運ばれてきたお蕎麦は今まで食べたことのないくらい美味しくて、罪の意識を忘れて上機嫌になってしまうほどだった。
海老の天ぷらを頬張る私に聡次郎さんは「な、言ったとおりだろ?」と笑顔を向けた。

帰りにお金を払おうとする聡次郎さんに叔母さんは一切受け取ろうとしなかった。「またきてね」と笑顔で見送られては申し訳なさでいっぱいになった。

「ご馳走になってしまって申し訳ないです……」

「いいんじゃん? 俺は今日は払おうとしたけどいつもはタダで食ってるし」

呆れたけれど親戚なのだからそういうものだろう。あんな美味しいお蕎麦を食べられるなんて羨ましい。一般の人はなかなか入らない高級なお店だろうし。

「もう一軒行くぞ」

「え!」

さすがにもう帰るだろうと思っていたので驚いた。

「梨香は甘いもの好き?」

聡次郎さんは私の驚いた声は聞かなかったことにしたようだ。

「好き……」

「ならよかった」

今度はどこに行くのかを決めているようで、車が走り出し住宅地を抜けると助手席側から海が見えてきた。

「わあ」

思わず身を乗り出した。窓を少し開けると潮の香りが強くなる。冷たい空気が車内に満ちて寒くなってしまった。

「すみません」

窓を閉めようとしたけれど、聡次郎さんは「開けてていいよ」と海にはしゃぐ私を許してくれるようだ。
海が見える場所は少ないようで、数分走るとすぐに見えなくなってしまった。

「残念……」

そう呟いて窓を閉めた。

「さぶっ」

もう3月も終わるというのにまだ寒い。
突然聡次郎さんが笑った。

「え、え、なに?」

「いや、梨香はひとり言が多いなと思って」

自覚がなかったので恥ずかしくなった。

「だって、横に聡次郎さんいるからつい……1人きりだったら静かだし」

「そう? いいよ、何でも話して。俺が返事してあげるから」

そう言われたら逆に話せなくなってしまう。思わず握った手に違和感があって見ると、手の甲が荒れている。乾燥して痒みがあった。
カバンから雑貨屋で買ったハンドクリームのチューブを出した。早速薄い緑色のクリームを手につけ馴染ませると鼻に近づけた。手からは爽やかな香りがする。

「どう?」

前を向きながら聡次郎さんがハンドクリームの使い心地を聞いてきた。

「緩めのクリームで手に馴染みやすい。香りはお茶って感じじゃないかな……爽やかだけど」

「どれ?」

信号で止まると聡次郎さんは私の手首を掴んで自分の顔に引き寄せ匂いを嗅がれた。

「え?」

「うん、いい香り」

そう言って私の手を優しく放した。
またしても抵抗する暇もなく聡次郎さんに手を掴まれモヤモヤした。

「何……するの?」

「お茶の匂いがするかと思って」

「………」

何でもないことのように言う聡次郎さんに言い返せない。
この人は本当に私をからかっているのではないだろうか。手を掴まれた私の気持ちを想像できないわけじゃないだろうに。
恋人でもない、上司と部下の関係なだけで親しくもない男性にこんなに触れられたことなんてない。
これが契約の一環だというのなら、どうかこの行動を喜んでくれる別の人と契約し直してほしい。
私は聡次郎さんの行動がわからなくて戸惑う一方だ。



車が止まったのは駅から近いコインパーキングだ。
この先には雑誌でも特集が組まれる飲食店の集まる通りがある。
平日でも人が多い通りだから、先ほどのように聡次郎さんが手を差し出してくることは予想していた。思った通り差し出された手に、私はためらいながらも自分の手を重ねた。

「ここだよ」

歩いて数分で止まった聡次郎さんの視線の先は甘味屋さんだ。満席に近い店内に入り2人分のぜんざいを注文した。

「ここは1品頼むと抹茶がついてくるんだ」

「その抹茶ももしかして……」

「そう、うちの抹茶」

龍峯では抹茶も販売している。確か取引先一覧にこのお店の名前も見た気がした。
抹茶はお客さんの要望があれば試飲することができたけれど、私はまだ点てることができない。

店内に芸能人のサインがたくさん飾られているだけあって、取材も多く入るこの店のぜんざいは美味しかった。
龍峯で抹茶を飲んだことがあるのに、同じものでもここで飲むと一段と美味しく感じる。
今回も会計は全て聡次郎さんが払ってくれた。

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